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コラム:断れない人たち

コラム   2022/08/11 (木)  5:54 PM

断れない人たち:断れない人たちの傾向 

断れない人たちは、相手が自分にこんなイメージを抱いているかもしれないという不安を感じやすい傾向があるかも知れません。そしてその期待に応えなくてはと思い込んでしまいます。 そのイメージには、以下のようなものが挙げられます。 

 

・思いやりがある 

・世話好き 

・感情移入しやすい 

・自分を犠牲にした正義感 

・困っている人の役に立ちたい 

 

飽くまでこのイメージは断れない人たちの思い込みかも知れません。当人もそれはわかっていますが、冷静な判断よりも、このイメージによって自分が動かされているという作為体験をやめることができません。 

 

上に挙げました行為は道徳的で社会的に評価されるべきであり、広くは人類に貢献しているという崇高な価値観を帯びています。しかし、ここで問題なのは、これらの行為が自分の願望や欲求を飲み込んでしまうことかも知れません。

 

「飲み込まれても、私の功徳はいつか評価される」 

しかし、少しも評価されないばかりか、誰も私に対して関心すら持っていないことにある時気づくかもしれません。 

 

「否、そんな訳がない、いつか評価されて・・・」 

 

このように同じ展開を繰り返し、誰かの評価を待っていますが、断らずに人やと会社などに尽くしている割には評価されませんから、沸々と怒りの感情が蓄積されてゆくかも知れません。

断れない人たち:自分の怒りの防衛機制 

 自意識過剰の幻想は、自分のも?か相手のものか?を混乱させます。 

 

「優しい人」、「正しい人」のレッテルを貼られている以上(自ら貼っている以上)、そのキャラクターとして相手(自分)の期待を破ることが恐怖に変貌し、当人は他者に怒っていないフリをしますから、ストレスは高じてゆきます。

 

ついには本当の気持ちを相手に伝達できない生きづらさに悩み、職を転々としたり、引きこもったりの状況を招いてゆきます。心に隠している怒りの感情は、やがて自分へと向けられますが、その怒りを自分のものではないと否認しているため、周りにいる人たちへと投影されて、私でない周りの人が私をみんなで怒っていると解釈します。 

 

断れない人たちの生きづらさ:言葉から見た「断る」のニュアンスについて 

「断る」という状態には、様々なニュアンスがあります。英語の「断る」という単語には以下の4つが類語として辞書で定義されています。 

 

1.refuse:受諾の意志のないことをはっきり表明する(はっきり謝絶する) 

2.decline:穏やかに礼儀正しく断る(やんわり辞退、謝絶する) 

3.reject:強い調子で断固refuseする(拒絶する) 

4.spurn:軽蔑してregectする(鼻であしらう意) 

 

「断る」は、自分の心の中に必ず相手を想定した自分として使用されます。「断る」には、相手への配慮や気配り、あるいは嘘のない自分の考えの表明などが表現されます。「断って悪いことしたかな?」などの善悪の判断がよぎります。

 

そして、自分の価値観や意志を表す語としても使用されます。心にトラウマの問題を抱えたままこれらの語を使用する場面に遭遇すると、必ず他者と混乱やトラブル、勘違いを招き、社会生活に影響を及ぼしてしまうかも知れません。 

断れない人たち:自暴自棄とトラウマ体験 

自分が自分に「断る」状態は、「断念する(英語のabandon)」が当てはまります。  abandon  oneself to dspairで「自暴自棄になる」という意味があります。 

 

「断れない」、つまり「自分を断念する、あきらめる」は、自分を放棄して相手の支配下に身をまかせた精神状態となります。自分にとぼけて、自分に嘘をつき続ける心理を「断れない」は含んでいます。本当の自分を隠します。本当の自分であった時に何らかの恐怖を与えられ、それがトラウマ体験になっていると、本当の自分=恐怖=誰かが睨む、怒る、虐げるという条件反射が心の癖となります。 

 

トラウマの恐怖は、私に望むべき判断をさせてくれません。しかし、それによって支配権を濫用して元気になれる人がいるので、従順であればだれも怒らないし、恐怖を与えないだろうという信念が自我に作られます。

 

終には、思うように社会で活躍出来ない、色々できて才能豊かだけど評価されない、気がつけば人の踏み台にされ、おまけに心身ともにストレスと疲労で不全感を覚える。その発散が、アルコール、インターネットゲーム、ギャンブル、恋愛、過食などに嗜癖することで依存症などの問題を抱える場合もあります。 

断れない人たちの生きづらさ:「断る」訓練 

他者にうしろめたさや罪悪感を持たずに、自分の意志によって自分自身を律することができれば、対人関係で苦しんだり、問題になったりすることは先ず起こりません。 

 

・私はこうしたい 

・私には今、それは関係ない 

・私はそれはしたくない 

・私はあなたに怒りを感じます 

・私には今日、やることがあります 

 

上のような主張は、「アイ・メッセージ(I message)」と呼ばれます。 

 

「アイ・メッセージ(I message)」には、自分の気持ちを上手に伝えられないなどの自己主張が苦手な人にとって、アサーショントレーニングの機能があります。相手に自分の気持ちを言い淀んだら、意識して「私は~です」と、「私」という主語を忘れずにつけて意思表示をする習慣をつけると、自分と他人との区別がハッキリしてゆきます。 

 

この「アイ・メッセージ」を伝えようとするとき、多くの人は人との対立、自分への悪い印象、社会一般からの酷評、孤立への不安、仲間外れの恐怖、恥ずかしさ、嫉妬、怒り、虚栄心に悩み、もう一歩先に進むことができません。こうした自分への自信喪失の心理には、自我本来が持つ自分を顧みて内省する力に意味を見出せません。これも、過去に起きたトラウマ体験の恐怖が原因だったりします。 

断れない人たち:「私は断りません」という信念

自分が「NO!」と言わないと両親は安定していたというトラウマ体験、他者が安心すると自分も恐怖を免れるというトラウマ体験、それが家庭から学校、会社での対人関係へと拡大して、トラウマ体験の恐怖を回避しようと他者を観察し、自分が麻痺していることも知らずに、他者の出方に気を取られてきた経験、その具体的な行為のひとつが「断らないこと」です。 

 

「断らないこと」は、その達成度によって、他者から高く評価されたという幻想をまるで現実のように感じさせる魔力があります。しかし、「断らない」が慢性化すると、相手からの勘違いと「誰も本当の私を知らない」という孤独感によって、苦しも浮かばれずの何か釈然としない社会生活を送る羽目に陥ります。 

断れない人たち:トラウマによって作られた性格傾向 

アダルトチルドレンと呼ばれる人たちは、過去にあった親からかの虐待などによって、少なからず上記のトラウマ体験があり、他者が安定しないと自分は落ち着かない、イライラする、安心できないなどの問題があるかも知れません。

 

トラウマの支配は「私は何だかわからないけれど断れない性格なの」という不可解な受け身の表現となって表れます。「私は断らない」とは表現しませんから、自分の意志とは独立した何かによって動かされている状態をぼんやり表現しているのでしょう。 

 

「私は断れない性格なの」と相手に言えば、相手は同情や心配をして、私に関心を持ってくれるチャンスがつくられます。 

 

「断れない」という「させられ体験」として、相手に自分のどうにもならない心情を伝えることで、本来、「私は疲れたし、私はそれを断ります」というアイ・メッセージの代理として機能させることになります。しかし、相手からの「どうしたの?大丈夫?手伝おうか?」という声掛けをそのメッセージは相手に要求しています。 

 

伝えたいのに、はっきり相手に伝えられない、はっきり意思表示したらどんな辱めと恐怖を味わうだろうか、、、こうしたトラウマの恐怖と不安は、「断れない人たち」の性格傾向を、消極的、引っ込み思案、気が弱い、自己評価が低い、謙虚で好印象に仕立て上げてしまいます。 

断れない人たち:一時的なトラウマ解消法の代理行為 

例えば職場で「どんな仕事も断えない⇒「仕事を抱え込む」⇒「他者がその大変さに着目する」⇒「着目によって自分は今、ここにいる」を感じ、多幸感と万能感が高揚感を感じる。 

 

この多幸感、万能感、高揚感は、幼少期に親から受けた見捨てられ不安やネグレクトのトラウマを一時的に解決する効果はありますが、アルコールと同じで他者の着目に依存し続けなければなりません。

 

すると今度は 「断らない」⇒「仕事を抱え込む」⇒「他者がまたはじまったと思う」⇒「他者の着目が得られない、評価もされない」⇒「投げやり、自暴自棄になり怒りで極端な行為をする(例えば退社してしまうなど)」 

 

職場の同僚や部下に「そんなにたくさんは無理です」や「手伝って、協力してやりましょう」と言えないのでしょうか。当人には言っても伝わらなかった経験が過去にあったりして、それがトラウマとして根深く残っていたりします。このトラウマは無気力と相手への怒りを生みます。 

 

「いつも独りだった。もう私はお願いなどしない」 

「できなければそれまでだ!」 

 

こうした負の陶酔感はアルコール度数の高いお酒にも匹敵するのかもしれません。 

断れない人たち:トラウマと人間恐怖の謎 

自分が非難されないための手段は、誰にでも愛想よく八方美人で、時にはユーモアも上手に立ち回れるほどの道化役者でなければなりません。太宰治の『人間失格』という小説に見事に描写されています。頼まれてもいないのに場を和ませるのは、大勢の人間が恐怖だからかもしれません。対人の沈黙の時に、「誰かが私を嫌っている?、怒っている?」と言い知れぬ不安から、無理な会話をして、断れない約束までしてしまう経験はよくありますが、こうした人間関係の頻度が多いと社会不安で人と出会うこと事態が不快になります。まずは安全で他者から振り回されない環境を整え、心に聴いてみましょう。 

 

「心よ、私はどうして沈黙が苦手で、話をしなければと焦って嘘をたくさん言って、断れない約束をするの?」 

 

心はなかなか答えてくれません。トラウマによって凍結した部分を回答するには多少の時間が必要です。トラウマはあなたが本当の自分を知る機会を奪っているため、あなたにあなた自身の感覚や内省を与えようとしません。 

断れない人たち:FAP療法について 

他者に振り回されない自分もあなたの中にきっと住んでいます。 

 

そこには他者への不安や恐怖はゼロとは言えませんが、それに脅かされることは減少します。自我には謎の部分がたくさんあります。「自分の心と話をする」と聞いたとき、何か浮世離れした宗教のように感じてしまうこともあります。

 

それよりもSNSで表面上の一般受けする自分にイイネをもらっていた方が、手っ取り早く楽で華やかかもしれませんが、この他者の評価をもらい続ける他人中心の生き方は、社会不安や他者への恐怖、疲弊、心配など、対人関係=不快、恐怖に振り回されて、「嫌われるかもしれない」、「怒られるかもしれない」、「仲間はずれにされるかも?」に怯える結果を招きます。

 

つまり、「断れない心理」の正体は、謎多き自分(わたしは何が好き?、わたしはどうしたい?わたしは何が嫌い?など)を放置して、他者中心が人生だという思い違いをさせられてきたと言えるでしょう。他人中心志向は、「自分の心と話をする」ことを奪ってしまいます。不安や恐怖を感じるなら、みんなに高評価をもらいなさい!と一体だれがあなたに命令しているのでしょうか。 

 

そして、「心と話をすること」をブロックされているから、謎の後ろめたさや罪悪感を、人と出会うたびに感じなければならなくなります。 

 

当院では「断れない」で苦しむ問題を、FAP療法によって自分自身の感覚をさりげなく取り戻す治療を行っております。過去の自分を直視して自我を統合してゆく治療法には、とかく精神的苦痛が伴いますが、それを最小限にとどめるやり方で、気がつくと自分は変化していると思っていただける面談で皆様をお迎えしております。 

 

FAP療法では、クライエントの方の家族トラウマによる不安や恐怖を、治療者に転送して、緊張のレベルを下げてゆきます。治療者は、共感性を促進する脳神経細胞のミラーニュロンを活性化して、一旦はクライエントの方のトラウマを引き受けます。クライエントの方がトラウマから解放されますと緊張が解けて弛緩します。その後、微かな眠気と共に心の弛緩した状態が、本当の自分の声を一番聞こえ易くしてゆきます。 

 

「わたしは他人に振り回されず、できませんと断ってももよかったんだ!」というあまりにも当たり前な発見が、日常生活で色彩豊かに何気なく皆様に訪れてほしいという気持ちで治療をしております。 

 

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