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LGBT

LGBTとは

LLesbian):女性の同性愛者

G  (Gay):男性の同性愛者

B  (Bisexual):両性愛者

T  (Transgender):心の性と体の性が不一致のトランスジェンダー

 

上記の頭文字を略称してLGBTと呼び、性的少数者の総称となっています。

 

性的志向(性的関心や恋愛対象がいずれの性を選ぶか)や性的自認(自分が認めている性)は与えられたものであり、自分では選ぶことができないものです。しかし、身体的特徴から戸籍で定められた性を決定され、家では親の望む性を演じ、学校では差別やいじめを受け、会社で同性愛をカミングアウトすれば不当な解雇や異動を命じられたりと多くの問題を抱えているかも知れません。LGBTを取り巻くこうした状況下でも日本はLGBT平等法の制定を先送りしています。相も変わらずLGBTの方にとって、味方の少ない劣悪な環境は続いているかも知れません。

 

LGBTの方の生きやすさを考え、日常生活をどうしたら強く生き、成長できるかを治療の展望にしています。多数派に脅威を感じない自分、孤独と戦っているご自分の力と才能への気づき、抑圧されていることへの怒りの発見と解放、「本来の”私”」が自信を持っていく事などの問題に寄り添いお話をお伺いさせて頂きます。

LGBTと心の問題

あらゆる人々の人権尊重とその多様性を社会は受容するべきであるという課題は、LGBTの問題を通じて益々人々への意識改革を今日深めています。近い将来、日本でもLGBT平等法が制定されるのもそれ程遠い先の話ではないことを感じつつあります。けれども戦後間もない頃の日本人の意識改革がそうであったように、「明日から天皇制をやめて民主主義にかわります」と突如言い渡されても、素早い衣替えはできず、その変化は段階的であり、様々な問題を含んできました。

 

とりわけこの衣替えは、公的レベルでは法律などの文書の部分では素早い変化をもたらしますが、個人同士が出逢ったり衝突したりする日常レベル(家、学校、会社)では、前途多難であるのが現実です。それゆえに、LGBTの方が抱えている心の問題や生きづらさは一筋縄ではうきません。

 

社会の多様性が叫ばれる以前から、LGBTの人々が日常生活で抱えてきた生きづらさの問題を、メンタルの部分から捉えた時、幼少期から日常的に続いてきた不当な差別やいじめが原因で、様々なトラウマ体験を抱えている可能性は十分にあるかも知れません。

 

そのトラウマに支配されて生きていることは、以下のような心の状態を抜け出せないのは「こんな私なのだから当然なの」という、まるで何かの命令に従っているかのような判断をしてしまいます。そんな心には以下のような状態がつきまとっているかもしれません。

 

・自己肯定感の低さ

・疎外感や孤独感

・本当の自分を抑圧して生きること

・抑圧で生じる離人感

・多数派に従わなければならない束縛感

・自暴自棄

・自傷行為

・見捨てられ不安

・絶望感

 

本当の自分を発揮できないと、他者への迎合から心にもないことを喜んだり、みんなが絶対にできないような、恥ずかしさと恐怖が伴う環境に自分を投げ込み自暴自棄に陥ったり、自己不全感から抑うつ的になりかねません。

 

1.感情制御の変化(自傷行為や性的逸脱 ) 

2.意識変化(解離症状) 

3.自己の感覚の変化(恥の意識) 

4.加害者への感覚の変化

    (復讐への没頭 だけでなく、加害者を理想化) 

5.他者との関係の変化(孤立・ひきこも り)

6.意味体系の変化(希望喪失)

 

(国際医療福祉大学心理学科 精神科医 和田秀樹PDF『児童虐待と複雑性PTSD障害』より)

 

「トラウマを負った人は新しい経験を自分の人生に統合できないので、立ち往生し、成長が止まってしまう。」

 

(『身体はトラウマを記憶する』(ヴェッセル・ヴァン・デア・コーク著 柴田 裕之訳 紀伊国屋出版 )P.90より)

 

トラウマによって成長が止まっていることにすら心は意識できず、身体は常に慢性病や頭痛、腰痛、気分の不安定さなどで成長できないことへの窮屈さを叫んでいるかもしれません。何十年も前の、サイズの小さくなった靴や衣服を心が窮屈に着続けていれば当然のことです。

 

LGBTの方の心の問題は、幼少期より長期化するケースが多く、長期にわたる社会的、対人的な外傷への暴露後に発症する複雑性PTSD障害を発症していても何ら不思議なことでありません。長期間のいじめ、虐待によって本来のアイデンティティの抑圧、状況を変えられない無力感がトラウマによって今も継続している可能性はあり得ます。

LGBT 希少性、マイノリティ:言語化されないための犠牲者たち

人が社会的に生きると、他者との関係や他者との差異を目の当たりにするかも知れません。とりわけ社会が合理性や無駄のない効率性を求めだすと、その環境(社会)に「ふさわしい」や「ふさわしくない」という判断基準が大手を振るようになります。社会の合理性や効率性は、その性質上、「わかりやすいこと」を求めがちになります。「わかりやすいこと」、つまり、明確なアイデンティティです。

 

「桜やお花見をするなら、日本よりもアメリカがおススメ」などという判断を皆さんは日常的にしないと思います。あるいは、「あの日本人よりもこちらの外国人の方が日本語が達者」なども、希少性として判断され、着目され、マスメディアやSNSで拡散したりするでしょう。

 

ところが、この判断基準は、国家や民族、風土や環境が、暗黙の了解で決定した、いわば文化的かつ習慣的なものとなっています。文化は権力であり、支配者で大多数が日常的には意識せずに「女はこういうもんだ」「男だから仕方がない」などという判断は、言葉になる以前の思考を欠いた心の声が基準になっています。その声は、「長いものには巻かれていれば安全で味方もたくさんいます」と集団特有の無神経さや無骨さに変貌しかねません。

 

こうした社会的・文化的に形成される性別は、ジェンダーと呼ばれています。

「男性の明確な役割、女性の明確な役割」

 

今、私がこの文章を書いている時も、「男性の~」と女性よりも男性から書き始めます。女男とは書かず、男女と書きます。しかし、女男でも意味は伝わり、間違いにはなりませんが、女性運動家ですらうっかりすると男女という語順に従っているかもしれません。

 

この集団的な約束事は、役割のわかりやすさや明確さを求める合理型社会の支配者が、性別や人格よりも効率性を求めてた結果の現われのようにも思えます。効率的であると、支配者も統制がしやすいからかも知れません。

 

こうした社会は、異端者や少数派を攻撃したり、排除したりしながら、自由、平等、博愛を掲げるような矛盾を平気でやっていますから、自己肯定感を失う状況を性的少数者の方に課してしまうかも知れません。

LGBTと差別と偏見の発生源

差別や偏見は、文化や習慣を共有している集団が、ある人物に違和感を覚えた時にはじまります。言葉になる以前の思考を欠いた心の声たちはわかりづらい、おかしい、変だと攻撃します。その差別や偏見の背景には、社会という集団内で、生存競争する人間に過度の不安症が潜んでいるのかもしれません。

 

つまり、明確なアイデンティティで他人に私を演じなければならないという作業です。集団が見たときの「わかりやすさの犠牲者」と表現すればよいでしょうか。性別もそのひとつに数えられると思います。集団は、わかりやすいことと大多数の力が大好きです。集団にとってわかりやすくなるために、少数派は「本来の私」でないことを演じなければならなくなります。

 

・私のイレギュラーを他者は認めないはず、だからずっとこのままか・・・。

 

・私はよく気がつくと人に思われている。

   でもたまには誰か変わってほしい。

 

・本来の私なんか人が見たらモンスターよ。

 

・親になんて説明すれば・・・。

 

・親の期待を裏切ることなんて、できっこないし・・・。

 

こうした不安や悩みを抱えている場所は、いつも個人の中です。孤独です。内面の声と対話をする機会が、問題のない人以上に多いため、動作性知能よりも言語性知能の方が向上して心と体のバランスが偏ってゆくかも知れません。

 

自分を受け入れない社会で何とか生きてゆこうとするため、他の人たちとは異なる視点を持っていたり、思いもつかない発想やアイデアを持て余しているかも知れません。これらのクリエイティブな部分と動作性知能が結合した時、社会でその才能は開花するのでしょう。こうした孤独は「宝」そのものであることを気づいてもらえることが、しなやかな生き方の第一歩となります。

LGBT:誰も知らない自己否定

本来の自然な美しさを持っているご自分を重いマンホールの下に閉じ込めながら、孤独でないフリをして多数派に歩調を合わせすぎることは、生きやすさや自己肯定感を奪われてゆく原因となるかも知れません。また、多数派への歩調合せは文化や社会(家、学校、地域社会、企業など)によって強いられたものであるからこそ、それが解放された時のエネルギーは、凡人には出逢えない程の才能やパワーを持てあましているかもしれません。

 

「本来の私であれば、~がしたい」

 

この願望が社会の中で表現できる治療は、よい瘤取り爺さんのように、恐ろしい鬼の前で、居ても立ってもいられず、大好きな踊りを踊ってしまうようになることが重要です。そこには心の底から湧き上がる喜びやユーモアがあります。

 

治療では自己肯定感を高めながら来談者さんに寄り添ってゆくことを心掛けています。面談もあなたが本来の自分を表現するための社会の小さな入り口です。ぜひ、扉を開いてみてはいかがでしょうか。

LGBTと本来の私の解放

社会、とりわけ企業は、成果主義をモットーに組織を編成します。採用面接では、その会社にとって力となるチームワーク能力があるかをチェックする質問を面接官から投げ掛けられます。

 

「そのチームで、あなたは過去にどんな貢献をしましたか?」

 

「それでは、当社でどのような貢献をしてゆきたいと思っていますか?」

 

ここで皆さんは、100%採用不合格になる解答を考えてください。

 

「                   

 

たとえば、解答の一例を挙げますと

 

「やっているふりをしながら収入を得て、本当に自分が好きなことをやるため、又は見つけるための手段として、御社にそこそこ貢献しつつ自分の自由を失わず、そして誰が見ても健康で陽気な社員として期間限定で貢献します!」

 

どうでしょうか、採用など眼中になく、本来の自分が表現できていれば合格です。

 

ここまで極端に本音を言えて、面接官もニコニコ笑顔で受容してくれたら人間が非常に生きやすい社会になるのではないかと空想してしまいます。

 

LGBTの方にもそうでない方にも、社会や組織は時々あなたの本音を許さないかも知れません。けれども、心理カウンセリングの面接は皆様のこの部分を大切なものだと捉えます。

 

Aさんはサボってるから、私にばかり仕事が回ってくる!

 

するとこの前までサボることすらできずに貧乏くじばかり引いていたPさんが「この苦しみを回避するために、私もサボろう!」と感じます。これをPさんの変化と呼び、成長と呼びます。

 

会社と違い、心理カウンセリングは自己肯定感を成長させるために、企業にとってはうれしくないかも知れないあなたの本音を励まし育てます。それは、本来あなたがやりたいことを見つけるための手段となり、近道となります。本音や本当の自分が表現できた時こそ、次第に「本来の”私”」を認め自由な展開が見えてくるかもしれません。

最後に

LGBTについてご説明致しました。

当相談室ではLGBTについてのカウンセリングを行っております。ご希望の方はご連絡を頂ければと存じます。

 

●カウンセリングをご希望の方はこちらからご予約頂けます。