カサンドラ症候群とは、1988年にR.R.シャピラというユング派心理療法家によって以下のように定義されています。
情緒性に乏しいパートナーとのかみ合わない人間関係によって、心身の苦しみを抱え、それを第三者に説明しても取り合ってもらえない状態をいいます。
家族や家庭という「くつろぎ」や「団欒」の場で、「やさしさ」や「思いやり」を失ってしまうストレスは、孤独感や寂しさを増幅させるかも知れません。その共感性の喪失は、妻あるいは夫に自閉症スペクトラム障害やその他の精神疾患が隠れている場合があります。
この比喩は、イギリスの自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)指導的専門カウンセラーのマクシーン・アストンによるものです。ワシは自閉症スペクトラムの男性、自閉症スペクトラムでない女性はシマウマです 。
ワシとシマウマは生き方や食べるものが異なるため、関係を持ってもうまく運びません。 一緒に生活するためには、群れを成さないワシは群れを成すシマウマの環境に適応しなければなりません。そこに無理が生じてしまいます。
なぜならば、ワシは生きるために山に戻ってシマウマとは違った食べ物を食べなければ生きて行けないからです。 シマウマもワシもその理由がわからずにいます。
「私に関心がないのでは」という疑念によってシマウマは深く傷つき、その関係は不安定なものになります。シマウマはワシからネグレクトを感じ、ワシはシマウマから責められていると感じます。
DMS-Ⅳ(精神疾患の分類と診断)までは、その名称がアスペルガー障害とよばれていました。DMS-5より自閉症スペクトラム障害となっています。これらの特徴をお持ちの方の一部には、IQが高くてあるひとつの事に突出した才能を持っている「天才肌」の方が多いようです。
最近ではASDの類型化が以下のように類型化されています。
尊大型
他者に対して見下したような、高圧的な態度をとるタイプ
孤立型
他者への関心を一切持っていないタイプ
受動型
自分から関わろうとしないが、他者から話しかけられると受け入れるタイプ。
積極奇異型
他者に積極的に話しかけ親しくなろうとするタイプ。
自分の話したいことだけ話す。
●ASDの特徴
1.身体言語の欠如:目をあわせない、身振り手振りが理解できない、無表情
2.共感性の欠如:アンとサリーの実験の解答が正しく答えられない、想像力欠如
3.仲間意識がない。人間関係の発展、維持ということに価値を見出せない
4.常同運動:反復的な行動
5.同一性への固執:ルーチン、儀式のようなあいさつ。異常なほどのきわめて限定された興味、一般的でない対象への強い愛着
以上のような特性を持つASDの方は、一見するとクールな一匹狼で規則正しく約束事はイレギュラーさえなければ、必ず守ってくれる無口で真面目で信頼の篤い人のため、饒舌で世話焼きタイプの人にとって見ると、真逆の魅力のように感じてしまうのかもしれません。
「お互いがバラバラで、共感し合うことに乏しいような気がする、おかしな夫婦かもしれないけれど、これも個性的でユニークなのかもしれない」
新婚当初はポジティブ思考と若さを頼りに、いつか二人は改善してゆくと思ってみたものの、依然として変わらない。どこか夫婦関係が釈然とせず、すれ違いが多いと思われます。
長期化すると以下のようなことに気がつきます。
①一方は我慢強く、一方はマイペースで無頓着
②どうにも言葉のキャッチボールがうまく出来ない
③ふれあいや愛情にまつわる情緒的な関係に乏しい
④繰り返しても繰り返しても、どうして私の愛情表現は相手につたわらないのだろうかという虚しさに襲われる
⑤良かれと思ってしてみた愛情表現やサプライズが夫婦喧嘩のきっかけになってしまう
⑥息子の不登校あるいは娘の摂食障害といった問題等を抱えている家庭
⑦会話に乏しく、話題は仕事や自分の熱中していることばかりが殆ど
⑧一緒に居間で寛いでいても、何か言い表せない寂しさを感じてしまう
⑨けれども夫は真面目で仕事熱心な人で、経済的には安定した生活が送れている。あるいは妻はパートと家事を怠らず、情緒的な部分以外は100点に近い
⑩優しさや思いやりからかけ離れたところに自分がいるような気がする
これが原因で抑うつ、不安、怒り、罪悪感、自信喪失、頭痛、めまい、動悸、過呼吸などの症状が慢性化します。
周囲は更年期障害、季節のせいだ、大人はみんな我慢している、昔の人はそんなの当たり前だった、息抜きがうまく出来ていないんでしょ?などと取り合ってくれず、見捨てられ状態は極限に達します。
パートナー(夫あるいは妻)の自閉症スペクトラム障害への理解がないと、報われない我慢を繰り返し「抑うつ⇒不安⇒怒り⇒罪悪感」という負のサイクルを循環して、原因不明の精神疾患に苦しめられます。
親や友人、知人に相談しても「夫婦のことなので、ストレス発散にショッピングや旅行でもどう?」と的外れなアドバイスをもらって、理解者不足に深い孤独感に陥ってしまうかも知れません。
このように、夫(あるいは妻)との「関係」に生じる共感性が剥奪されると同時に、この苦しみを理解してもらえない周囲との「関係」にも共感性の剥奪が生じます。別名、カサンドラ情動剥奪障害(Cassandra affective deprivation disorder)と呼ばれています。
この二重の共感性剥奪の状況が、ギリシャ神話の神アポロンとトロイの王女カサンドラの話に似ていることからその名前がつけられた精神疾患です。
太陽神アポロンに愛されたカサンドラは、アポロンから予知能力を授かります。皮肉にも「いずれ私はアポロンに見捨てられてしまう」ということをカサンドラは予知してしまいます。
「見捨てられてしまうのならば、アポロンの愛を拒否しましょう」カサンドラは思います。これが神アポロンを怒らせます。
「カサンドラよ、見捨てる見捨てないという基準によって、神である私の愛を拒否するというのか、カサンドラの予言など誰も信じないようにしてしまえ」
神アポロンに呪われたカサンドラは、たとえ真実を予知して人々に伝えても、誰からも信じてもらえない(相手にされない)苦しみの運命を背負います。
見捨てない人は何処にいるのでしょうか?
カサンドラの求める人は見捨てない人です。
それは常に不安と隣り合わせの状況です。見捨てられているかどうかを絶えず意識し続け、そのことに振り回されてしまう。相手は期待の重圧に自由を失い、やがて耐えられなくなる時がやってきます。
見捨てられ不安は、昼寝から目覚めると、いつの間にか親が近所に小さな買い物に数分間出掛けていて「お母さん!」と泣きながら家中を探し回る時に、幼児が感じる孤独と寂しさの恐怖体験の心理に似ています。
あるいは、子どもの頃、迷子の経験のある方はあの筆舌尽くしがたい不安と恐怖をご存じでしょう。個人差はあるものの、迷子になった不安と恐怖と共に、自分にとって安全基地である人(母、父、叔母、祖母、兄弟等)が頭に浮かんで来たことのある経験をお持ちではないでしょうか。
芥川龍之介の短編『トロッコ』でも、トロッコに関心を持った少年がトロッコに乗せてもらうことが実現し、嬉しさに我を忘れて工夫2名とトロッコで遠方まで行くと、日の暮れかかる頃、工夫からもう帰りなさいと言われ(見捨てられ)、徐々に夜は迫り、線路を懸命にひた走り、暗い夜の中に我が家を見つけ、飛びついた母の腕の中で泣き声しか出せず、貪るように少年はその安心感にしがみつきます。後年、主人公は家庭を持った今でも、理由もなしにその不安に襲われるというシーンで終わります。
◎一方のパートナーに見られる以下の診断基準が1つ以上当てはまる
・感情知能(EQ)が低い
・アレキシサイミア:失感情症
(自分の感覚を認知したり表現することが困難で想像力、空想力に欠ける)
・共感指数が低い
◎パートナー関係の問題
・対立関係が激しい
・精神的又は身体的な家庭内虐待
・人間関係の満足感が低い
・人間関係の質が低い
◎精神的または身体的症状
・罪悪感、強い孤独感
・自尊心の低下
・不安、怒り、抑うつ
・自己喪失
・恐怖症(社会恐怖症、広場恐怖症)
・心的外傷後ストレス反応
・不眠症、片頭痛、自律神経の乱れ
自閉症スペクトラム障害に限らず、もしもパートナーに精神疾患や人格障害の問題等を抱え、妻あるは夫がそれを知らずに生活していたとしたらどうでしょう。
最初は、パートナーにちょっと変わったところがある程度のことと思って、パートナーの個性を尊重してゆけますが、長期化すると、相手の精神疾患や発達障害を放置したままトラブルが続き、残念な離婚にまで発展してしまう場合があるかも知れません。
カサンドラ症候群を知って、はじめて夫の私への冷たい反応や対応の意味が分かったと仰られた方もいます。
時々妻がうわの空になり、私の思いやりに無反応の時があって寂しさと虚しさを感じていましたが、妻は複雑性PTSDの解離症状とフラッシュバックで、人の話を聞くどころではなかったんだと理解され、お互いの協力と援助を深めたご夫婦もいます。
一回きりの人生を大きな勘違いの中で過ごすことは、是非とも避けたいものです。
自閉症スペクトラム障害(ASD)は共感能力が障害された精神疾患であり、その特徴の理解を深めることが夫婦間のストレス低減にもつながります。
また、複雑性PTSD、虐待などの経験、愛着障害、人格障害(回避性、自己愛性、妄想性、強迫性、シゾイド、)によって感情の乱れ、感情の麻痺、離人感、失感情症(アレキシサイミア)、フラッシュバックが、その共感能力を低下させている場合があります。
カサンドラ症候群は、夫婦の相互作用で生じる「関係性」に問題があると言われています。そのため「夫が悪い」、「妻が悪い」といった悪者探しの解決方法では、より一層生きづらさと関係悪化を増幅してしまいます。
「金銭面、住居、今後ふさわしいパートナー出逢えるかどうかの不安とストレス(用心しても再び同じパートナーを選んだらどうしよう)、、、それにいつ始まるかもしれない親の介護、子どもへの影響、子どもは大学まで行かせたい、パートのままでは生活できない、正社員?責任の重圧、裁判、年金のこと、老後、、、、」
こうしたストレスの渦中に巻き込まれるものが離婚かも知れません。かつては自分にふさわしいと思って、あなたが選び一緒になることを決意したパートナーです。安易に別れたら自分が変わるというものでもありません。
あなたの心のあり方が変わった時に、別れるか否かという答えは自ずとでてきます。周りの情報に振り回されたり、友人知人のアドバイスだけで考えるのは早合点の元かも知れません。
友達や親が気分転換に話を聞いてくれて共感してくれた⇒夫が悪人に思えてくる⇒よし、別れる事に決めた!こうした判断は非常に危険です。
別れる事を考える前に、「見捨てられ不安」から解放された時の本当の自分を知るほうが先決かも知れません。寿命を縮めてしまう原因のひとつと言われている離婚は逃げて行ったりしませんので、是非ともこの順番を間違えないことが重要に思われます。
私は私、あなたはあなた、あなたが私であってほしい 私があなたであってほしい
共感性に何ら価値を見出せない人(男性)がいます。一方、そのパートナー(女性)は人一倍、共感性の価値や大切さがよくわかります。
共感性に価値を見出す世界に住んでいない人は、間違いのない方法でその仕事の結果や成果を出すことが何よりも大切です。
そんな異色の世界の人に、共感することの大切さを教えて上げたい。女性はこう思いました。世界には様々な色があるけど、きっとあの人の世界は白黒しかないのでしょう、、、、。そんな情が深いパートナーには、こんな期待がありました。
彼は必ず私に振り向いてくれる筈。そしてカラフルな世界の美しさに驚くでしょう。ところが期待は裏切られ、一向に変化は訪れません。
この期待の由来を辿った時、幼少期の親からの見捨てられ不安やネグレクト、虐待の経験が見つかるかもしれません。自分に無関心だった親が、夫あるいは妻の姿を借りて、今、ここにパートナーの姿を借りて再演されているのかもしれません。
「楽しそう、悲しそう、喜んでいるんだ、きっと痛いんだ、疲れているんだ、
きっと眠れないんだ、不安なんだ」
こうした言葉を他者から言われたり、思われたりしたことのない人はいないと思います。共感し合えることは、深い絆と協力関係を形成します。
そこには、自分を肯定し、味方になってこの人生を応援してくれる、あるいは、助けあって、どんな苦難も乗り越えることができる代替不可能なパートナーへの期待や承認欲求、見捨てられるなど考えられない、消して枯れることのない永遠の約束が交わされ、大きな夢さえも実現できる才能と力を二人に与えます。
just the two of us
we can make it if we try
just the two of us
building castles in the sky
just the two of us you and I
二人だったら
出来ないことはない
二人だったら
空にお城だって建てられる
ふたりだったら
わたしとあなたなら
『just the two of us』の歌詞より
(作詞/作曲:ビル・ウィザース、ウィリアム・サルター、ラルフ・マクドナルド)
この情緒的な世界が喪失してしまったとしたらどうでしょうか。
驚くことはありません。私たちは群衆として生活している時、強烈なインパクトを受けたり、場違いな出来事でもない限り群衆の顔を記憶することがありません。ごく普通で心身共に不自由なく健康であれば、一人一人に関心がない。通勤通学ではほとんどの人の顔を覚えていないか、足を踏まれでもしない限りは忘れてしまいます。
たとえ高齢者に席を譲ったとしても、その人物を忘れてしまいます。実はこのことは、私たちは関心のない世界に生きていることの証となります。
意識のポイントが別の場所(趣味、スマホ内のSNSトーク、今日の仕事のこと等)にある場合、こうした無関心が生じます。あなたも見知らぬ他者から関心を持たれることなく、何らの印象も与えず、スマホの画面よりも関心の低い存在者として、他者の関心の圏外で生活している時があります。
その時、私たちは皆、他者にとっての忘却の住人と言えるのではないでしょうか。この忘却の住人としての私は寂しさや孤独感の反動で、共に喜び、共に笑い、共に泣き、共に愛し、共に怒れる人に出会いたいという願いが生まれてきます。
SNSは正しくそんな共感の広場といえます。また、夫婦関係もその一つでしょう。けれども、忘却の住人がパートナーである場合、共に共有するものもなく、相手の関心の圏外で大きな寂しさと見捨てられ感に陥ってしまいます。
ユダヤ人の精神科医でゲシュタルト心理学のフレデリック・パールズ(1883-1970)は、彼のワークショップの開始の際、下記の詩を参加者と一緒に必ず唱えていました。
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。
部分ではなく、全体を受け止める世界は、パートナーを尊重し、他者への自由を許容します。自分の感覚に忠実に生きているから、自分自身も自由であり、孤独でいられます。
しかし「見捨てられ不安のトラウマ」という部分が、あなたの心と体の支配権を持っていると、自分のために生きることの失敗を繰り返してしまうかも知れません。見捨てられないための承認を相手に求めることは、相手を疲弊させ、拘束し、怒りを誘発させてしまうかも知れません。
見捨てられる不安から解放された時、「私は私で良い」という安心感と自信を持つことができます。そして「私が私であって良い」と思えた時、パートナーとの関係においてこれまでとは違った世界が見えてくるかも知れません。
共感性に何ら価値を見出せない人(男性)がいます。一方、そのパートナー(女性)は人一倍、共感性の価値や大切さがよくわかります。共感性に価値を見出す世界に住んでいない人は、間違いのない方法でその仕事の結果や成果を出すことが何よりも大切です。
そんな異色の世界の人に、共感することの大切さを教えて上げたい。女性はこう思いました。世界には様々な色があるけど、きっとあの人の世界は白黒しかないのでしょう、、、、。
そんな情が深いパートナーには、こんな期待がありました。彼は必ず私に振り向いてくれる筈。そしてカラフルな世界の美しさに驚くでしょう。しかし彼の白黒の世界を尊重することに、彼女は関心が持てませんでした。
この期待の由来を辿った時、幼少期の親からの見捨てられ不安やネグレクト、虐待の経験が見つかるかもしれません。自分に無関心だった親が、夫あるいは妻のかたちに代わって、今、ここにパートナーの姿を借りて再演されているのかもしれません。
「お母さん、ほら、ブランコから飛べたよ!振り向いて!」