HOME > 片付けられないお悩み

片付けられないお悩み

片づけられない人:片づけたくても片づけられない 

「片づけられない人たち」の背後には、「片づけさせない人たち」が隠れているかも知れません。 自己を感じる感覚を取り戻すことで自分への集中力が強化されると、部屋や心は 整理されてゆきます。 

 

生活の中で片づけるという行動の優先順位が後回しになってしまう原因には以下のような心理的背景があったりするかも知れません。

 

・幼少より貧困を経験し、捨てることができない 

・万能でありたい、何でもできなければいけない 

・捨てることに悲しさを感じ、後ろ髪を引かれる 

・一人でいられない 

・殺風景だと恐怖を感じる 

・散らかることが自己表現になっている 

・散らかすことを他者に注意してもらうことで相互作用的な関係を維持している 

・人間関係での沈黙に強い不安や恐怖を感じる  

・自分自身の沈黙や無の状態、つまり自分に向かい合うことに恐怖を感じている 

 

上記のような心理的背景の根底には幼少期からのトラウマの問題が隠れていたりりするかも知れません。 それが「片づけさせない人たち」です。 

 

トラウマは自分の中で支配権を握る誰かからの恐怖によって、影響をされているかも知れません。それについて疑問を持たない中で感覚麻痺状態陥り、部屋が片付いていない状況でも平然としていられるのかも知れません。時間の経過と共に「あの時どうしてそれはおかしいと思えなかったのか」という後悔と怒りが、自我の健康を取り戻すと共に表れてきます。 

 

トラウマの恐怖は日常生活全般を支配します。しかし、あなたの無意識はトラウマから解放されたい思いを、ああでもない、こうでもないと懸命に表現し、トラウマを与えた人との戦いを試みます。

 

その表現のひとつが「モノを買い、溜め込み、片づけられない」という油性マジックで太く強調した表現を伴う過剰行為だったりするかも知れません。その散らかり方は、自己実現を獲得しようともがき苦しむ証かも知れません。

 

散らかして片づけられない自分を責める前に、散らかった部屋をゆっくり眺めながら「よく生きようとしてるんだ、言葉にできない私の部分が、、、」と深く感じてあげましょう。 

 

当相談室ではFAP療法によってトラウマ治療を中心に、あなたをコントロールしてきたトラウマの問題を解決するお手伝いをさせて頂いております。トラウマは意識を解離状態(感覚麻痺)にしてしまうため、実際の自分は出番を失ってしまいます。

 

トラウマの恐怖から解放されると、自分自身の「現実」が見えはじめ、自己を感じる力が高まります。つまり、今やってみたいことや安定して確実にできる範囲がわかりはじめます。同時に今「必要なもの」と、「もう必要ないもの」が区分けされ、部屋がきれいに片付きはじめます。 

 

それは時間と意識の流れが「過去-現在-未来」という継続する流れを持って、「今ここ」に居る自分の現実をよく理解させ、安定した未来を思い描くことにつながってゆくのです。

 

トラウマは過去にあなたを固着されるため、成長や前進することをあなたに許しません。過去のとらわれから脱出する自由をトラウマの恐怖によって奪われているため、心は停滞します。停滞した心を何とか解放しようと、様々なモノを購入し、そのモノに心を投影してゆくと さらに捨てることができなくなり、散乱し片づけられなくなってゆきます。 

片づけられない人:整理整頓の意味 

辞書オンライン四字熟語辞典で「整理整頓」の意味を調べますと 

 

「必要の無いものを捨てて、乱れているものを整えて、綺麗に片付けること。 

「整理」は乱れているものを整えること。または、いらないものを捨てること。 

「整頓」は整った状態にすること。似た意味の言葉を重ねて強調した言葉。」と 

定義されています。 

 

 日常生活の物事の優先順位は、トラウマの恐怖に支配されていなければ、スマートに決定されてゆきます。 優先順位決定の根底には、自分が主人公の健康な自己の価値観や判断力があります。

 

自己が向かうべき方向を見失い、自暴自棄と無力感、自尊心の低下といった複雑性PTSD(幼少期からのトラウマ)特有の精神状態に気づかずにいると他人に支配されやすくなるかも知れません。他人からの支配は常に「他者の評価」が基準となるため不安がやむことがありません。 

 

また、優先順位がなくなってしまうということは、自分の中に規則を持っていない状態に近くなります。どうしても興味の湧かない科目の試験勉強は、ポイントすら見つけることにも関心が湧きません。教科書のすべての文字がポイントに思えます。ポイントが見えてこないと文章全体をマーカーでアンダーラインを引いてしまいます。そして頑張った割には結果が伴わないかも知れません。

 

整理整頓されて必要なものだけがある。そのような空間は、自分の意志や欲求に対してで機能的です。自分の中の「したい」が明確です。自分の部屋(空間)は自分の心の状態をはかる物差しかも知れません。つまり、自分が他者(トラウマ)に振り回されているかどうかという物差しとなるかも知れません。 

 

「心を亡くす」と書いて「忙しい」とよく言われますが、心身共に不快な「忙しさ」には、やはり自分以外の他者の支配を想定しなければ説明が難しいと考えられます。 自分の「心を亡くす」ことで、成長は停滞してしまうかも知れません。

片づけられない人: 成長の観点から

人間の精神的な成長についての研究者として知られるアメリカの心理学者アブラハム・マズローは、自己実現へと向かう人間の成長を欲求の観点から研究し、その欲求の五段階説は広く知られております。 

 

マズローの欲求の五段階説は、自己実現(私はこうなりたい)に伴う人間の基本的欲求を 低い欲求から高次の欲求へと向かってゆくものとしてピラミッド型に表します。 

 

●自己実現の欲求 (Self-actualization)

自分の能力を可能な限り活用できる自分に適したことをしていたいという欲求 

 

●承認(尊重)の欲求 (Esteem)

所属した集団の中で他者から尊敬されたいという欲求 

 

●社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)

生理的欲求と安全の欲求が満たされると他者に認められ社会に所属したいという欲求が生まれます。 

 

●安全の欲求 (Safety needs)

心理的、経済的に守られているという欲求。愛着形成にも影響する。 

 

●生理的欲求 (Physiological needs)

食事・睡眠・排泄などの生理的欲求が満たされること 

 

自己実現の方向に人間の欲求は向かって自己実現に至るとマズローは考えました。 しかし自己実現(私はこうなりたい)が五里霧中で得体の知れない自分のまま、トラウマの支配され自分の価値基準を失うと、1段階目の生理的欲求に無意識が退行したり、見捨てられ不安の問題を抱えたりします。 

 

過去にとらわれた逃げ場のない欲求は、モノに自分の気持ちを投影して溜め込み片づけられなくなります。そして、以下のような判断が日常生活に蔓延します。 

 

「幼少期から経済的不安だった。所有物を捨てるなんてありえないこと、いつか役に立つのかも」⇒安全の欲求、貧困の恐怖 

 

「家の中で自分の成長の記憶と共に数々の思い出の品はいつも、誰よりも私の側にいてくれた」⇒分離不安や愛着の問題、自立の恐怖 

 

「ブランド品や高級車を所有して、一等地の一戸建ての広い家に住めば、みんなは承認してくれる。私は恵まれていると」⇒見捨てられ不安や承認欲求、ネグレクトの恐怖 

 

「みんなに気を配れば、この会社でみんなは私をいなくてはならない存在と思ってくれる筈」 ⇒社会的欲求、 

 

こうした欲求は他人から見られた完璧な自分を演じる傾向を持ちます。常に他人に振り回されていますから疲弊しますし安心できず、自分でも気がつけない心の深い所で人に怒りを感じています。その怒りを感じることに強い罪悪感を持つために、再び「人にはやさしくしなければならない」という方向に引っ張られて、その葛藤に苦しむかもしれません。

 

自分の能力に気がつき、他者から十分な承認を得られた時、この能力を活用したいと人は思います。それは意外にも普段からしている当たり前な日常の行動や習慣だったりします。そこに人は心の安心や安定を感じます。

 

しかし、普通である自分だけでは当たり前すぎて孤独を強く感じたり、嫉妬や怒りに振り回されたりすると、自分の「今ここに持っている才能や能力」だけでは一向に満足できず、過剰に頑張って空振りを繰り返してしまうかも知れません。

 

そのため、「自分は当たり前であってはならない。無理をしなければみんなは評価しない」という他人中心の判断が高じます。何でもできなければならない、何でも知らなければならないと自分に鞭打つ完璧主義に向かってゆきます。良い結果を出す時もありますが、長期化すると疲弊し虚無感に陥ってしまうかも知れません。   

片づけられない人:潔癖症:室内の2つの過剰表現 

●ゴミ屋敷のように「散らかり放題」 

●生活感を感じさせないほど「整理整頓され過ぎること(潔癖症)」 

 

このどちらも心に訴えかけてくるメッセージは強烈ではないでしょうか。 何故、部屋という空間を使って何かを訴えているのでしょうか。 

 

散らかしてしまう当人にわかっていることは「片づけは後でやればいい」、「このほうが落ち着く」、「そのうち誰かが片づけてくれる」、「そこは指摘しないでほしい」、「買い込んで安心したい」等々で、これ以上の展開は起こらず、さらに散らかります。機能的でない部屋の中にいると気がついてはいますが、やはり片づけられません。家族に指摘されても当然だとは本人もわかっています。けれども片づけられません。 

 

散らかしている人の無意識では、「他人に支配されたくない」という気持ちと「他人にそのままの自分を認めてもらいたい」という気持ちが葛藤して、正常な判断が困難になっています。こうして抑うつと無力感が支配します。 

 

整理整頓されすぎで潔癖症の当人にわかっていることは「またその箱の位置がずれてる!」、「どうして水回りを吹いてくれないの!?」、「臭いのするものはこの部屋で食べないで!!」、「菌がついてるから触ったリモコンは必ず拭いてよ」等々の自分のこだわりを通じて、怒り、不安、緊張を表現しながら他者にたくさんのお願いをしている自分に気がついていません。 

 

他人に支配されたくないという感情と他人から評価されたいという感情が絶えず葛藤しているため、精神的には過度の緊張と覚醒による疲労を感じます。そのため結果に満足できず、チェーンのはずれた自転車を漕ぐような不全感が伴うかも知れません。

 

幼少期の親からのネグレクトなどの問題を抱え、「完璧だったら愛される」という信念が自分にも他人にも厳しくなり、本来充当されるべきエネルギーを無駄遣いしています。 

 

両者はともに、「自分が今ここで何をしてどんな状況なのか?」という「現実(リアル)」が欠落した心理状態となっています。「現実(リアル)」の喪失も過去のトラウマが原因の場合があります。トラウマ治療によって記憶、思考、感情を統合することで潔癖だった自分や片づけられなかった私という「現実(リアル)」が回復して、室内の過剰表現(潔癖症と散乱癖)は消滅し、ストレートな自己実現へ向かう自分と出逢えるケースはたくさんあります。 

片づけられない人:トラウマという過去を片づけてゆく 

トラウマを抱えているということは、自分にとって不必要で邪悪な過去を常に捨てられず背負わされることになるかも知れません。過去に監禁されればその出口を見つけようと、様々な道具を購入したくなります。やはり出口は見つからず、再びモノは溜まってゆきます。 

 

さて、今流行りの断捨離本のおかげで片づけることはできました。広いさわやかな空間が目の前に広がってます。再出発。月日が流れます。溜めこむ。同じものを購入する。片づける。再出発。そして月日が流れて再び、、、、根本的にトラウマの治療がなされていないために、いわば溜め込むために片づける状況が繰り返されます。自分でも同じところをめぐっているだけとわかってはいますが、何度も繰り返します。

 

衝撃的な出来事を目撃したり、近親者やペットとの死別、虐待の経験などによって刻まれた記憶は、考え方や価値観の支配権を持ち続けます。フラッシュバックなどによって自由が脅かされてしまいます。親が頭の中で混乱している状況が浮かぶ。何故かわからないけれどさほど親しくもないPさんが突如浮かんで来る。

 

気が緩むと事故の記憶がありありと蘇る。同じ音や同じイメージが恐怖と共に突如現れる。これらの記憶はあまりにも本人には日常的すぎることなので、恐怖を恐怖と思えず(解離)、生きる力にブレーキを掛けられていることに気がつきません。 

 

この状態が継続すると羞恥心や無力感、怒りの感情に振り回され、全体を見渡せる力が低下してしまうかも知れません。 現在進行形の過去の恐怖の記憶を過去の時間として処理し、本当の自分の現在とその能力を感じて、未来に進む力を獲得する治療が必要となります。 

 

FAP療法は,認知行動療法などの暴露療法で行われる、恐怖の対象と向かい合う作業が軽減されているため、苦痛を伴わずトラウマ治療を進めることができます。 

片づけられないとその社会背景 

「断捨離」や必要最小限のモノで生活する「ミニマリスト」という言葉が数年前に流行語になった社会背景を考えてみますと,かつては購入できなかった商品が低コストで購入しやすい環境があふれるようになったからではないでしょうか。 

 

また、低コストに加えて、味がよい、素材がよいなどのプラスアルファがある商品が店頭に並び、その販売戦略の罠に引っかかってしまう環境があふれているからかもしれません。 

 

例えば、100円ショップ、大手チェーンの衣20料品店、チェーンを全国展開する家具店、雑貨店などが挙げられます。販売する側は高級品とそうでない商品との垣根を取り除いてしまったように錯覚させる商品を、わたしたちの欲望のアンテナに向けて商品提供の電波を送信します。さらに、今すぐ欲しい、すぐに手に入る環境は物流の発展と共に加速しています。 

 

経済学の視点から「人間の欲望は過剰性にとりつかれている」と欲望を定義したのは、フランスの思想家で小説家のジョルジュ・バタイユです。過剰性は無駄を謳歌し、贅沢を味わいます。こうした行為は「蕩尽」と呼ばれています。古代社会では支配者である王様が祭りなどの特別なイベントの時に民衆への報酬として大盤振る舞いをしながら王様としての威厳を保ち、民衆に尊敬されながら共同体をまとめていました。 

 

時代は変わって現代は、「王様」は「自分」に置き換わった民主主義の世の中となりました。自己の能力次第で自由や富を自分に大盤振る舞いできる時代が現代です。また、現代社会はお手ごろな値段で「特別感のようなもの」を堪能できる物質があふれています。

 

「特別のようなもの」が比較的簡単に手に入れば、そして、それが低コストであれば、労働で賃金を得て、自分が自分に報酬や褒美を与えてストレス発散することで自分をリスペクトできます。しかし、「自分をリスペクトしてもし足りない、どうして自分の能力が社会で開花しないのか?」という具現化されない能力は、ストレスとなり、物質として部屋にあふれてゆきます。 

 

「片づけられない」という状況は、突破口を失った自分の心の問題といえます。この問題に欲望の過剰性が加速すると自分を統治できなくなり、無政府状態からモノは部屋に散乱してゆかざるを得ません。 

 

過剰な利便性とモノの過剰消費は「片づけさせない人からの支配」、つまり「トラウマ」を見失わせ、自分の本当の能力を閉じ込めたまま時間(人生)をも浪費してしまうことになります。 

 

「部屋よ、どうしてそんなに散らかっているの?」と部屋に聞いてみましょう。 

最後に

片付けられない問題についてご説明致しました。

 

当相談室では片付けられない問題を抱える方々のご相談をお承り致しております。

ご希望の方はご連絡を頂ければと存じます。

 

●カウンセリングをお申し込みはこちら