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共依存

共依存(co-dependency)とは

様々な依存症の中で「関係依存」のひとつと言われている共依存は、自分と他者との境界線を見失い、苦しい人間関係に嗜癖してしまう依存症です。他者の問題に介入したり介入されたりを繰り返すため、この二人の自我は正常に機能しなくなってしまいます。

 

共依存は、過干渉、過保護といった形で現れ、支配する人と支配される人との強固な人間関係を形成します。共依存者は他者の問題を解決しようと奔走しますが、問題を解決してもらう側は、他人任せの無責任な状況に常に追い込まれ、社会生活で居場所を見つけることが出来なくなるかもしれません。

 

共依存者が一人になった時、自分は自分のために何もやってこなかったことに気がつきます。このように共依存は、自我の成長を抑制する人と抑制される人との関係嗜癖と考えることができます。

共依存:負の悪循環への嗜癖

共依存という言葉は、1970年代にアルコール依存症の患者とその家族(妻)を観察することから生まれた言葉です。人間関係嗜癖とも呼ばれています。団欒や安らぎとは掛け離れた人間関係の中に役割を見出します。

 

夫がアルコール依存になり、社会生活や家庭で問題を起こします。妻は飲酒を制止し、夫をケアしますが、妻が夫をケアしようとすればするほど夫は飲酒による問題行動(酒乱で暴れるなど)を繰り返します。アルコール依存を治そうとする役割(妻)とアルコールに依存し続ける役割(夫)の悪循環な関係に依存し続けます。

 

ところで夫婦関係が改善し、夫が飲酒を断って落ち着いた頃、今度はその家庭の娘さんが摂食障害を発症したり、息子さんが引きこもりや非行に走ったりします。あるいは、夫が良好となり安定しはじめると、妻のケアという役割が消滅します。

 

自由に健康に社会生活を送る夫に憎しみや怒りや裏切ったという感情が表出します。その感情を抑圧しようとすると、妻はうつ病を発症したりする関係システムが稼働し続けます。今度は妻への罪悪感から夫は再び飲酒をはじめます。

 

このように、負の問題を抱えていないとうちの家族は成立しないという幻想に常に支配されているかも知れません。この幻想の悪循環から解放されるためには、人への依存症であることを自覚した上で、つまり、客観的に自分自身とその人間関係を認識し、他人の支配を受けない、元々持っている”私”の感覚を手に入れることが目標となるかも知れません。

共依存とトラウマ

負の問題を抱えていないと家族は成立しないという幻想は、なかなか言葉という表現を使って意識には昇らない認知されにくい無意識の領域に属しています。それはご先祖や家系という小集団の無意識として、考え方や感性、行動として受け継がれてゆきます。

 

言い換えますと、伝来のトラウマ体験を家族間で連鎖して、家族システムを持続していることになります。ご先祖を振り返ると博打好きや酒乱で暴れる祖父がいたり、戦争から帰還後は人が人が変わったように非社交的で怒りっぽくなった祖父、離婚を繰り返していた祖母、虐待経験者などがいたりします。

 

また家庭内の負の問題は、父親の暴力が「おとうさんの悪い癖」というお茶目で滑稽な表現に脚色されたり、家族の問題を隠すための道化役する末っ子がいたりと、この負の問題を簡単には手放そうとはしません。

 

トラウマは実に巧妙です。トラウマ体験こそが家庭内の下部構造に潜伏する負の問題の原動力となっています。こうして家族は負の問題に終始し、いわゆる家族機能不全とそのシステムで育った子は、他人指向に執着する「アダルトチルドレン」として、再びそのトラウマを伝承し続けるかも知れません。

共依存とその特徴

「~さん」は、以下のように人から言われたりすると、自分の予定を返上してその人のために夢中になり、さらに頑張ってしまいます。

 

・「~さん」がいてホントに助かった

・~してくれるのは「~さん」だけだ

・あなたにはいつもサプライズがあって、私を飽きさせない

・いつもひとのことばかり、「~さん」たまには休んでください

 

「~さん」は頑張りますが、自己評価はいつも低く、自分を褒めることなど恥ずかしくてできません。そして自分に自信が持てません。自信と安定を求めて、負の巣窟に自分を投げ込んでみますが、いつまでも評価は上がりません。

 

より一層、暴力や心の病などの問題がある環境に自分を投げ込むことに嗜癖します。それでも自己評価はあまり上がりません。上がったと思ったらすぐに下がってしまうため、そのシステムから脱却できません。

共依存と依存

「依存」の意味を心理学辞典(誠信書房)で調べますと、以下のように定義されています。

 

●道具的依存:個人が自己の要求を充足するために他人に頼ること

●情動的依存:他人から保護や承認を得ることによって満足を求める行動、傾向、動機

 

人に「依存」せずに生きてゆくことはできません。生きている限り、人は人と必ず出逢い、関係を持ち、様々な人との依存を介して成長してゆきます。正常な依存であれば、自分と他人の線引きができています。けれども、上述の「情動的依存」が満たされていない自分を知らないと、本人にもわからない突き動かされる衝動によって社会生活や人間関係にトラブルが生じます。

 

他者から保護も承認もされない状況は、無意識の反動形成によって承認欲求は過剰になります。そして、自分にして欲しかったケアを他者にしたくなる情動を断ち切ることが困難になります。

 

無意識のなせる技によって、本人にはそれが問題行動であるという認識が伴いません。他者にケアをしたくなる欲求は、自ずと他者に頼られていないと自分が空虚にしか思えなくなります。空虚感が続くと、やがてそれは抑うつ感に代わります。

 

この抑うつ感を回避するためには、世話を必要とするパートナーを見つければよいと本人の無意識は判断します。それは「フィーリング」や「相性」などに置き換わり、恋愛の形式で共依存に発展する事もあるかも知れません。

共依存とアダルトチルドレン

「月曜はお母さんは不機嫌」

「お父さんの夜22時過ぎの帰宅はお酒を飲んで暴れる時だ」

 

ところが子どもたちは、父がぶちまける怒り、母の不機嫌などを否定的な感情とはとらえていません。子どもたちは親を選ぶことができません。機能不全の家族の中で生き残るためには、不快な思いを感じないように、自分がどうか守られるようにと自我を麻痺させて過酷な環境に適応します。その方法が「他人指向」であり続けるということです。

 

それは親への恐怖から身を守るために、親という他者の行動の先手を打つ荒行となります。それゆえに「他人指向」は心の中で絶えず怯えていなければなりません。

 

幼少期から絶えず他人を警戒するこのエネルギーを、他人に向けず自分に向けていれば、すばらしい才能が開花してもおかしくはありません。彼ら彼女らはその点には疎く、自尊心も低く、罪悪感も人一倍もっています。

共依存と「関係」

世間一般には誰も「その関係」を問題だとは思いません。そもそも「関係」が嗜癖や依存症になるということがピンとこないものです。その「関係」は「恋愛問題」として置き換わっているためでしょうか。男女の問題には口を挟まないという常識もあります。

 

表面的には面倒見のよい人が、パートナーと共に同じ過ちを繰り返し、周りは何とかならないものかと悩んでいます。手っ取り早い原因は「ご主人がお酒を飲まないこと」、「息子が引きこもらずに登校してくれること」、「娘が拒食をやめて痩せ細らないこと」だと世間一般には思われてしまうのが共依存です。

 

このように、共依存の問題は、「息子」が「夫」が「妻」が「娘」がという犯人捜し的な見方で捉えられてしまいます。

 

気づかれにくい共依存をご本人が自覚され、自発的に「治療をはじめなくては」と思うきっかけは、ご主人がアルコール病棟に入ったり、娘さんがリストカットをしたり、事件に巻き込まれたりという底をついた状況に直面化したとき、はじめて自分の立ち位置を客観的に観察しはじめます。

共依存とコミュニケーション

「何度言ったらお酒をやめてくれるの?」

「何度言ったら食事をちゃんととってくれるの?」

「何度言ったら学校に行ってくれるの?」

 

家庭内ではこのコミュニケーションが共依存的なものを育てます。相手を気遣ったり注意したりするメッセージは、言われた側(依存症、拒食症、引きこもり)にとっては注意された内容と反対の事が実行できる、またとないメッセージに置き換わります。

 

「何度言ったらお酒をやめてくれるの?」というメッセージは、だらしない、注意されなければ一人前になれない大人、無責任、意志が弱い、あなたは私の支配下、私の方が優位であなたは下、一人では何もできないなどのメッセージが裏に隠れているかも知れません。

 

「お酒」に限らず、「不登校」、「引きこもり」、「摂食障害」も同様です。それ故に、聞き手であるアルコール依存症者、引きこもりの息子さん、摂食障害の娘さんは、「何度言ったら~をやめてくれるの?」という注意によって、自立心が負の方向に芽生えます。

 

それが、「たとえお酒を飲んでいても、引きこもっても、拒食でも、私は一人前だし、責任感はあり、意志だって人並みにあるところを見せてやる」という心理を無意識の中で助長させることになるため、悪循環を断ち切ることが困難になってゆくかも知れません。

共依存と その原因

1.機能不全家族

共依存傾向の人は、親の虐待やネグレクトが日常化した家庭環境、いわゆる機能不全家族で育っていることがその大きな原因と言われています。愛着のタイプでは、安定型以外の混乱型、回避型、抵抗・両価型のそのどれもが共依存傾向の人格要素を含んでいます。しかし、1歳6か月という愛着の臨界期が過ぎると、人間はその自我を無修正のまま突き進んでしまうのかというとそのようなことはありません。ここで非常に大切なことが、ご自分を客観的に認識できるかという能力です。

 

2.愛の幻想

「私はわが子に愛情をどう表現していいか、、、怒りばかりが先行して、、」

幻想とは自分自身のものでないことが殆どです。それは文化や社会が作り上げた壊れにくいイメージであったりします。愛情、道徳心、正義感などの倫理観は、私自身の考え方よりも幻想の方が力を持ちはじめると、「~しなければならない」という義務感や規則ばかりの世界に縛られ、自我を見失わせます。

 

例えば幽霊を見たという確固たる証拠がないのに、その現象を自分の恐怖や不安とは呼ばずに「幽霊」と表現してしまうことはないでしょうか(私自身も「幽霊」を簡単に自分の中の恐怖や不安ですと呼べる自信はありません)。

 

人には愛情がなければならない。しかし、何らかの家庭環境や遺伝的、器質的な問題で愛情を知らない人は、この「愛情がなければならない」という大義名分によって、ご自分に失望してしまうかも知れません。

 

特にお母さんは、母親失格という罪悪感が生まれ「もっと娘の事を気にかけて愛情表現をしないと、、、」という焦りが娘さんへの過干渉に発展します。これも共依存の原因のひとつかも知れません。

共依存:自己と他者の境界線障害

カウンセラー:「家ではあなたはどんなことをして楽しんでいますか」

クライエントVさん:「母が好きなんですよ映画が、、、それで家で一緒に見るんです」

 

この会話の中には、本人の楽しみではなく、母を介した楽しみが表現されています。共依存の方は、他者と自分が混乱しているかも知れません。

 

ゲシュタルト心理療法の創設者フレデリック.S.パールズ博士は、神経症のメカニズムを他者と自己との境界線障害として、自我のイントロジェクション(取り入れ)、プロジェクション(投射)、コンフルーエンス(融合)、リトロフレクション(反転)の状態を記述しています。

 

 

1.イントロジェクション(取り入れ)

「真に自己のものではない規範、態度、行動や考え方をあたかも自分のもののように思い込むという神経症的な心理的過程」を指します。

 

人の成長は、自己と他者との境界をしっかり身に着け、外界から感知したもので自分に必要なものは身体の中に吸収し、不要なものは自分で排せつします。

 

「破壊と消化という作用がともなう同化(assimilation)」は、自我の成長を促しますが、「無理やり食べなければならないからと丸ごと飲み込まれた食物」は、不快感が伴います。

 

「吐き出してしまいたい欲求を抑え込もうするなら、苦しみながら何とか消化してしまうか、あるいは中毒症状をひきおこしてしまうかのいづれかになる。」と述べています。

 

宮崎駿監督の映画『千と千尋の神隠し』に登場するキャラクターの「顔なし」が、これをよく表現しています。「親」が、「仲間」が、「流行」がという基準で、あれもこれもと取り入れてしまうと消化せず自分のものにはなりません。パーソナリティは未成熟なまま、他者の判断を常に待っている状態になります。

 

 

2.プロジェクション(投射)

「もとはと言えば自己に端を発しているものを外界のせいにしてしまう傾向のこと」を指します。自分の感情や願望を表現できず、被害妄想から他者への攻撃欲求が生じます。

 

内気で愛想のない人が相手を薄情に感じるようなケースが当てはまります。アルコール依存症者の表現に見られる「私が酒を飲んだのではなく、相方がどうしてもっていうから飲んだ」もこれに当てはまります。プロジェクションは「自己と外界との間に引かれる境界線を自分のよいように、外界に侵入」して、社会生活では無責任な言動が多くなる傾向があるかも知れません。

 

 

3.コンフルーエンス(融合)

「自分自身と外界との境界を感じられないとき、あるいは自分と外界が一つであると感じるとき」の状態を指します。こうした一体感が慢性化すると自分と外界の区別ができなくなり、自分を感じることができなくなるかも知れません。

 

 

4.リトロフレクション(反転)

外界に問題があるにも関わらず「私自身がダメなので」という表現で自己に反転します。つまり「私」と私ではない「私自身」が別々の人物のように存在します。「私自身」=「彼ら」であるとパールズは述べています。

 

この分析は、いかに我々の自我が以下の頓珍漢な状態で外界(他者)に振り回されているかがよくわかります。

 

フレデリック.S.パールズ博士は心理療法について「自分と自分でないものとを再発見することができるように援助しなければならない。」(『ゲシュタルト療法

』P.57 ナカニシヤ出版)と述べています。

共依存:他人の支配について

 意外にも人は、他者を必要としない時間をなかなか持てないものです。

睡眠中の夢の中にさえ他者が現われます。日中は会社、学校、ちょっとした待ち時間や休憩中にSNSで他者の情報を見ては自分と比較したり、共感したり、拒否したりします。

 

完全に独りの状態で何かの作業や仕事や趣味に没頭している時でも、行き着く先には他者が待っています。

 

透明でも暗黒でも沈黙でも無でも虚でも言葉で表現できないものでも、言語として表現されることを回避できません。その言語は他者とつながるツールとなります。

 

生きている限りは、他者に私を表現することになります。たとえ独りでこの文章を読んでいても、今まさにあなたは他者に向かって「表現」をする準備をしています。他者を想定しない自分は何処にあるのでしょうか。

 

スポーツ競技でも「競う」という言葉自体が他者の想定なしには成立しません。「自分のために頑張った」という言葉は、自分自身に競争の不安や緊張を鎮静化させるための、つまり他者に邪魔されない自分だけの世界で自分を発揮するための自己暗示でしょうか。

 

「自分へのご褒美」という表現も、束の間でも他者から解放されているという自己暗示かもしれません。こうした自己暗示と訓練は、華々しい結果をもたらします。

 

 人間は他者との関係を結び、持ちつ持たれつの依存的存在であることを回避できません。つまり、「依存」や「誰かを頼る」ことは自然なことであり、そこから「信頼」という言葉が生まれてきます。「依存」は「信頼」や「愛情」の種であり、人間関係の中で日常化するからこそ、そこに盲点が生じます。

 

日常化した人間関係は、「信頼」や「愛情」という名の下に、他者の影響を受けやすく、気がつくと過剰になった依存関係は、ストレスや疲労感、生きづらさ、精神疾患の隠れた原因になっています。「私が助けないと夫は息子は娘は母は父は駄目になってしまう」など、、、、。

 

共依存とFAP療法

純粋な自我の占める領域は、意識の中にほんのわずかしかないのではと思ってしまう程、わたしたちの頭の中は他者の出入りが多い場所です。かといって、他者がいなくなってしまうと萎れて憂うつになり孤独や不安に苦しんでしまうかも知れません。

 

健全な自我は、たとえ他人の往来が激しい頭の中でも、その声を必要以上に聞いていません。自分にとって「今ここ」にいる私に必要なものが客観的に認識できているからです。

 

A.雑音をすべて聞いたあとで、自分の事をしようとしたら、あっという間に20年が過ぎていた。みんなは「いい人」と私を呼んでくれたけど、それっきりでした。その人たちとの交流もなく音信不通です。それでいまだに私は何をしてよいのかわかりません。取りあえず、だれかといたい、、、そんな気持ちです。

 

B.自分のしたいことをしながら雑音を聞いたら、今必要な音だけが聞こえてきた。

 

当相談室ではFAP療法を用いご提案させて頂いております。トラウマ治療の視点からAをBへと変化をサポートさせて頂く為の短期心理療法を取り入れています。トラウマからの解放によってあなたの共依存の状況が改善されるために全力を尽くしております。

 

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