コラム 2023/02/08 (水) 12:34 PM
「どうして生きづらいんだろうか」
自分ひとりで生きづらさの原因を考えてみると、色々と思い当たるところが浮かんで来るかも知れません。
「きっと私のパートナーに問題があるのかも?」、あるいは「職場の人間関係かも?」 。「それとも私の育った家族環境? 」「親からの遺伝? 」あるいはそのどちらも。
生きづらさの原因は環境のようだから「環境を変化させよう」と行動に移してみたものの、数週間するとまた元の木阿弥で、再び生きづらさの原因探しが振り出しに戻ります。
今度は人間関係にその原因があるようだから、新しい自分になってこの関係を変化させようと思いますが、思わぬ自分の行動や態度に、周りの人は「どうかしたの!?○○さん!?」と驚かれることほど嫌なものはありません。
このように原因は漠然とわかったけれど、私自身の心のあり方には一向に変化が訪れない経験を皆さんもお持ちではないでしょうか。
たとえ心の問題の原因がわかっていても、風邪をひいて薬を飲む、捻挫をして湿布薬を貼る、食べ過ぎを我慢して胃腸を整えるなどのようには、心(意識)は別人のように素早く変化してくれません。
時には「人間は自分が生きやすく生きることが非常に難しい生き物なのかもしれない」という諦めにも似た結論で自分をしめくくってしまうかもしれません。
しかし、生きづらさの原因を探すことは、言葉の上でのみ自分を理解した段階といえるでしょう。その心の原因を問題と思わなくなった時、日常生活の行動全般に変化が訪れます。
以前、花に水をあげていたときです。一羽のカラスが家の花壇に居座っていたので、カラスの方にホースを向けて追い払ったことがありました。それからというもの、カラスも負けていません。上空から花壇にゴミを落下させたり、花壇を荒らしたりが数日続きました。しつこい嫌なカラスだなあと気分を害しつつも、数日間、カラスを無視してみるとカラスは来なくなりました。
半年後、友人といたずらなカラスが話題になり、「ああ、そういえばうちもカラスの嫌がらせにあっていたことがあったわ」とすっかりカラスを忘れていた自分を思い出しました。カラスに固着していた時の自分とカラスなんかすっかり忘れている時の自分が、同じ自分の中に同居していたからです。些末なことながら私の意識の焦点が変化していると鮮やかに感じた瞬間でした。
心の問題や人間関係のトラブルの原因探しで行き詰まっているあなたにも、やがて訪れる意識の焦点の変化はすぐそこまで来ていますが、それをなかなか感じられません。変化は近くて遠いあなたの中に同居しながら眠っています。そこに「気づき」をもたらして、楽な生き方へ変化させる役割を心理カウンセリングは担っています。
心と体との二人三脚が仲たがいした状態を、心理学では心的葛藤(conflict)などと呼んでいます。この心的葛藤によって、「日常生活に支障をきたす」や「パフォーマンスが上がらない」が生じます。
自分自身の心(思い)と体(行動)が一致せず、何かをする前にあきらめたり、やっていることに満足感を得られなかったり、社会生活への不快感が強まった時に、心理カウンセリングは有効な手段となります。心と体が一致しない場合、例えば以下のようなストレスを日常的に感じます。
・衝動的に消費してしまうため、無駄なもので部屋はあふれている
・「部屋を片付けよう」とイメージしてください、憂うつや倦怠感に襲われませんか
・会社では過剰に自分を消耗して家で休んでも疲れがとれない
・「緊張」が当たり前すぎて「リラックス」することがどういう事かを実は知らないのかも
・自然体の時はできるのに、緊張する場面では全くできなくなる
・電車、バス、人ごみの中で、人の動作、声などに頻繁に怒りや不快感を覚える
・笑顔と怒り、真面目さと不真面目、穏やかさと緊張など、表向きと心とが真逆である
・自分の中の怒りの感情に罪悪感や恐怖、不安を覚える
・確認行為がやめられない
・人の目が気になる
この心的葛藤による生きづらさによって、「どうして私はダメなんだろうか?」という自問にまでは、かろうじて到達しますが、それ以外の答えが見つかりません。変化しない自分への憂うつな思いで停滞しますから、自己肯定感を持つことができません。結末はいつも自己否定という高い壁を乗り越えられずに閉塞します。
この心的葛藤は本来の自分を感じたり、考えたりする機能を奪い、自己を混乱させます。たとえ心的葛藤のまま考えたり感じたりが機能したとしても、自分の現実をよく把握できていないために、回り道をし過ぎていたり、無駄足を踏んでいたりで、疲弊しながらも自分の能力とは全く反対のことに熱中してゆきます。
自分が今まさに独りきりでいとき、かろうじて今現在は他者に迷惑を掛けてしまうという心配からは解放されます。従って心が健康になるためには以下の世界がどうしても必要となります。
・人間関係のしがらみや気づかいのない世界
・社会的優劣にとらわれない世界
・自分への絶対に肯定的な世界
こうした世界を心から信頼できると、自分の本質が見えてきます。ところが日常の世界は齷齪と働き時間に追われ、膨大な情報に混乱し、市場経済によって必要のないモノへの欲望を刺激され続けます。大勢の人間がそうしてるからという圧力もかかっています。
こうして見ますと、自分が世界の中で動くのではなく、世界によって動かされているようです。世界の言うとおりにすれば報酬を与えられますという巨大な条件付けがされた場所を社会というのでしょうか。時にそこは雑音でしかない場合があります。すると満足感や充実感はいつまで経ってもやってこないどころか、いよいよストレスによってほかに世界(チャンネル)はないの?という思いが高まります。
最近のテレビは見ていても、以前のようには楽しめないし、テレビをつけているだけでストレスを感じたことはございませんでしょうか。それと何だか似ているように思えます。
自分の本質を知る能力を過度に妨害された時こそ、上の3つの世界を人は必要とします。
「どうしたいのでしょうか?」
「自分がどうしたいのかわからなくて・・・・・」
自分自身がどうしたいのかわからない状況を打開するために、上の3つの世界を提供する場所が心理カウンセリングの役割の一つとなっています。
他の打開策を見いだせず、日常的に生きづらさを感じている方は、おおよそ以下のような習慣を生活のローテーションの中に取り込んでホメオスタシス(恒常性)を保持しようとします。それは自己逃避であったり、「私さん!早く変化して!」という自我への危険信号であったり、コンプレックスへの怒りの発作であったりします。
【没頭】
仕事、趣味、収集家
アルコール、ギャンブル、ゲーム、性、ショッピング、人への嗜癖、薬物
【孤立】
引きこもり
【破壊】
虐待、ネグレクト、反抗、対立、パワーゲーム
これらの行為や状態のうちには、社会とは遠くかけ離れた所に自分を逃避させたい願望や社会に対する自分の怒りと不安が強調されています。つまり、生きづらさとは、社会の中に所属する自己に不快感を禁じえない心理状態を示すでしょう。そして、社会さえなければ、自分は解放されるという空想を実現したい欲求にかられます。19世紀のフランス象徴詩人のボードレールの散文詩の『異人さん』はそれを見事に描写した傑作です。
『異人さん 』
—お前は誰が一番好きか?云ってみ給え、謎なる男よ、お前の父か、お前の母か、妹か、弟か?
—私には父も母も妹も弟もいない。
—友人たちか?
—今君の口にしたその言葉は、私には今日の日まで意味の解らない代ものだよ。
—お前の祖国か?
—どういう緯度の上にそれが位置しているかをさえ、私は知っていない。
—美人か?
—そいつが不死の女神なら、欣んで愛しもしようが。
—金か?
—私はそれが大嫌い、諸君が神さまを嫌うようにさ。
—えへっ!じゃ、お前は何が好きなんだ、唐変木の異人さん?
—私は雲が好きなんだ、・・・・・あそこを、・・・・ああして飛んでゆく雲、・・・・あの素敵滅法界な雲が好きなんだよ!
『巴里の憂鬱』(ボードレール著 三好達治訳)
社会への居心地の悪さで人間関係に嫌気がさし、とうとう雲に自己を没頭します。詩の表現の中であればよいのですが、実社会でこれを実行に移すと、当然、社会適応は困難になります。しかし、自由(行く雲の流れ)を誰よりもよく知っている人たちなのです。
現代社会の生きづらさを悪という視点から表現した結果、偉大な詩人としてボードレールは今日まで多くの批評家や芸術家に語り継がれる人物となっています。
自分の生きづらさを受け止めて表現できること、言い換えますと、今ここにいる自分の体と心が所有しているものだけで何かを感じ、思考し、判断して、ある行動を組み立てる喜びに出逢った時、あなたはあなた自身から沸き起こる根源的な生きづらさから解放されます。
問題の部分は、あなたが何かを感じること、思考すること、判断すること、行動することを妨害されているからです。それに気づきを与える場所が心理カウンセリングです。それは、「わたしのどうしたいがわからない」をわかるようにする自我との対話の場所です。日常的には、たとえ意識しても自我が妨害されているとは思い当たりません。
非日常的な空間として心理カウンセリングが機能することによって、この妨害に気がつかれ、「これって妨害だったんだ!」という驚きとダイナミックな展開が、クライアントの方の生き方を根底から変えてしまうケースはたくさんあります。
クライエントさんの意識は心理カウンセリングの治療を表面上求めていますが、 意識化されていないトラウマはそれを体ごと拒否します。
トラウマの恐怖が根底にあり、今までの生きづらさを合理化、投影、抑圧、反動形成などの防衛機制によって、過去のトラウマ体験を肯定する否認がクライエントに生じてしまっている。
たとえば「親が私を虐待したのは、その当時父が失業して家庭内はストレスだらけだったから仕方なかった」という親の虐待へのフォローかも知れません。怖かったという感情を凍結させ、自分の中の怒りが処理されず過去に固着します。
このように、クライエントの意識は心理カウンセリングの治療を表面上求めていますが、意識化されていないトラウマはそれを体ごと否認してしまう場合もあるかも知れません。
トラウマの持つエネルギーは非常に賢くすさまじい力を持っているため、その否認も非常に頑固です。しかし、そのすさまじいエネルギーを否認に使用せず、自分のために使用することに気がつくと一気に変化してゆきます。心の健康な人はみんなこうして生きているんだという大きな発見をされます。
誠実な治療者との揺るぎない信頼関係こそ、この否認を解くカギとなるかも知れません。
・クライエントから現実把握や自己を観る客観性が失われる。後年、振り返ると 「どうして私は、わたしを利用する人たちに引き寄せられ、彼ら彼女らの笑顔のために 無益な労力や気遣いをしてきたのだろうか」という怒りの感情と解放感が現われる。
この状況の時の自分の頭の中を観察すると、その声や意見や表情、喜怒哀楽などは 自分のものではなく、他者のものだったりします。たくさんの他者という雑音が チューニングの合わないラジオのように混線して自我を妨害します。こうしてトラウマ記憶はあなたから本来の自分を隠蔽します。
●ご興味のある方はこちらからご予約を頂けます。
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