アダルトチルドレン, コラム 2022/07/30 (土) 9:31 AM
人は「中庸」という真ん中の状態が、とりわけ心の安定には大切で、「中庸」は自分自身の状態や人間関係を良好にします。東洋であれば古代中国の孔子、西洋であれば古代ギリシアのアリストテレスが、中庸の徳について説いていたと記憶しますが、現代ではもしかすると「クール」などの言葉に代用されているかもしれませんね。
「中庸」を極めると「クール」で落ち着いて、現実の自分の状態をよく把握できるから、安定してブレません。自分や他人への疑念が減少します。生活のパターンや時間の管理に無駄がなくなり安定します。パフォーマンスを高めて無駄のない動作が、仕事、趣味、対人関係に反映され豊かになります。価値観の異なる人たちからの批判や対立にも自信を失うことがなくなります。
「人は人、自分は自分」という他者の価値観の受容は、心の安定なくして生まれないといえるでしょう。
では「過ぎる」のにやめられないとは何でしょうか。
「過保護や過干渉」という言葉にも、「過ぎる」という接頭語があります。
「わかっているのにやめられない」が「過ぎる」の正体でしょうか。同じ過ちを繰り返し、それが日常化してゆきます。時には、「過ぎる」を手放せないがために、その正当性を示そうと自己弁護したり、相手を怒りと脅迫で支配して問題を起こしてしまいます。「過ぎる」の当事者(親)側には、「過ぎる」ことへの妙な役目や使命感とそれをやめられない苦しみと嫌気が同居しています。
こうして親は子へ没頭し、親子共同体となり、お互いが個として切り離された状態を見失います。切り離されず混ざり合っているから、必ず弊害が生じます。体一つで脳が二つですから、一方が他方を支配しないと混乱します。親は「過ぎるのでは?」という疑念が意識の一歩手前まで湧いてきますが、謎の衝動に突き動かされるように「過ぎるがやめられない」を繰り返します。
「これはどういうことでしょうか?」 親がこどもの失敗を見守れない。これではいけないとわかっていても、こどもの判断より自分の判断を押しつけてしまう。子どもに発作的な忠告をして、こどもの自由を奪うほど介入してしまう。
親の過剰な「こうしなさい、ああしたほうがよい」は、子どもが自分を知るきっかけを奪ってしまいますから、子どもは責任を他者へ押しつけたり、親同様に他者に対して支配的になってゆきます。おのずと人間関係も独りよがりの一方通行な対人関係となるので、周りからは敬遠されてしまいます。 それなのになぜ、親は子の社会適応が困難になる道を選択するのでしょうか。
「自分は優秀で天才なのだから偉大な存在でなければならない」という強い義務感に縛られた自我は、特別であることを常に意識します。
経営者、政治家、弁護士、宗教家、学者、教師など、職業柄、壇上に立つ機会の多い専門職に従事する方は、プライドとスペシャルであることを常に意識しながら、その自己愛を満足させ、社会活動や研究に昇華している方々と言えます。
しかし、自己愛が空振りして支障をきたすと、自分以外の世界はすべて後回しか、全く眼中に入らない自我の状態に陥ります。自分を賞賛しない人には、どうしても価値を見出すことが困難になります。自己愛の人は、評価し受け止めてくれる人を常に必要としています。そんな自己愛の人のパートナーは、従順、消極的、おとなしい、支配されやすい人だったりします。そのパートナーが過去に虐待やいじめの経験があったりすることも非常に多く見られるかも知れません。
これが例えば親子関係であったりすると、親と子の役割が逆転する、いわゆる機能不全家族が抱える様々な問題に巻き込まれてゆきます。
親が喜んだ。親が「あなたのおかげで助かった」と言ってくれた。母も父もこの時だけは笑顔を見せてくれた。親が安定した瞬間を子どもは見逃しません。「Aをするならば愛になる」という条件を学習し、実践して、はじめて親から評価されるという信念を獲得します。私が他者から評価賞賛されたりすることが親の愛であるという、条件付きの愛情が形成されます。親の愛情とは評価されることであり、完璧な100点こそが重要となります。
・楽する自分は許せない
・1番であることこそ重要である
・無理をすると評価してくれる
・ダメなのは中途半端といい加減なこと
・常に白黒ハッキリさせるべきだ
・バスや電車内で他者の振る舞いを見ては逐一怒りを覚える
・目標どおりにことが運ぶと安心する
・チーム内で目標達成の足を引っ張る人へ攻撃的になる
・微々たる間違いがすべてを絶望に変えてしまう
・6割くらいの力で掃除して残り4割はソファーで寛ぐなどあり得ない!
・どうして常に100点にならないのかと悩んでいる
では、そのままの自分に、一体だれが気づいてくれるのでしょうか。 そのままで愛されることに、そこに居るだけで受け止めてくれるなど意味をなさない家庭環境は、常に100点をとろうとするので、厳格なスパルタ式が当たり前となります。
過干渉や過保護の親は、今そこにいるわが子よりも、子どもの100点の部分を気にかけ、100点を愛しています。100点が全体で、わが子は部分に置き換わっています。100点をとってくれると、自分すらも輝いて美しくなる鏡を見たような思いになれる、そんな病的自己愛の問題があります。
また、100点の家庭環境は、100点であることを常に監視しチェックするストレスから、子どもへの身体的、精神的な虐待を発生させやすい環境となります。複雑性PTSD障害や摂食障害、社会不安障害などの症状で社会と距離を置くようになり、ようやく心理カウンセリングへと結びつくようです。
過保護も過干渉も、わたしの思い描くあなたと他者(あなた)が完全に一致することに嗜癖する依存症といえるでしょうか。100点の一致を目標にしますからかなりの難題ですし、その支配は持続します。
その100点がどうして常に頭に侵入してくるのでしょうか。自分の意志でその100点のイメージを払拭できないものでしょうか。たった一日くらい、子どもと一緒にバカを演じてみても、人生はおかしな方向にいったりしない筈です。
この依存症の仕掛け人は、過去のトラウマが現在に侵入し、自分が本来思い描きたいと思っていた未来の姿を、過去の100点が足を引っ張り、あなた自身の感覚を解離させている場合があります。
トラウマによる自己の感覚麻痺や解離は、「自分を見失っていること」を見失っているため、「これでいいのだろうか」という不安にまでは至りますが、その漠とした不安からのストレスで再び依存対象に没頭し、一向に自分をコントロールできません。内省というの心の観察を自らストップしてしまうため、変化への突破口の手前で依存の波に飲まれて振り出しに戻ります。
過干渉や過保護とは、過去の100点トラウマがけしかける子への依存であり、親が保護者としての役割を過剰に感じることが生き甲斐にすり替わっています。子へのケアやフォローが、「自分が思い描くわが子というイメージの支配」に乗っ取られた状態です。
感情、才能、長所、短所、などなど、今ここにいるわが子の実像を見失っています。見ているのは親の内面の心の状態を子へ投影しているだけという、子にとっては非常に寂しい状態でしょう。実の親は私を全く知っていない親子関係が起きています。
子への保護や養育の名を借りたエゴイズムの暴走が、過保護、過干渉を助長します。子どもの側から見れば、それは子どもが親の世話役、親への気づかい、親の心の相談員となり、親を満足させれば、自分は評価されるという条件付きの愛情のようなもので支配された関係となります。この100点トラウマの支配は、摂食障害、引きこもり、素行障害、解離性障害、不安障害やうつ病、強迫性障害、パーソナリティ障害などの精神疾患に置き換わって表現されるかもしれません。
治療では、FAP療法によって、内面化されている親子間の役割の逆転現象が隠れたところで起きているので、その役目に少し休暇を出せるようにします。あともう一歩だけ自分自身を観察する力は、トラウマによって活用できな状態です。自分が内省しないことで、都合のよくなる人が過去にいたのかもしれません。そんなトラウマ支配を面談では漠然と思っていただくかもしれません。
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