コラム 2023/12/02 (土) 12:44 PM
周りから自分はどのように思われているのだろうか。
自分は相手をどのように思っているのでしょうか。
手掛かりになるものは、言葉と表情、雰囲気、声の感じ、その日の服装、髪型などから感じ取れるかもしれませんが、非常にアバウトかも知れません。アバウトにならざるを得ないのを承知で、我々の認知はそれを正しいと思い込ませています。
人間は不安定で不明瞭なものを好みまないかも知れません。いつも平常心で穏やかで、わかりやすくて安定している人はまわりの人を安心させます。人間は、わかりやすくて安定した人を非常に好むかも知れません。今は愛想よく機嫌がいいけれど、何かがきっかけで不機嫌になって暴力をふるう人のそばでずっと暮らしていたいと願う人はあまりいないかも知れません。
昨日、失恋したL子は元気がありません。彼女の職場の同僚は、「今日は○○ちゃん、私にそっけない」と感じます。「先週、わたしのミスで彼女を巻き込んで大残業になってしまったことを怒っているのかな」と思い込みます。
ヒトは外側と内側とでは随分とギャップがある生き物です。何を感じて、何を思っているのだろうか。思っている通りの時もあれば、予測に反する場合の時もある。勝手な思い込みや勘違いで自分も相手も存在しています。その気持ちや行為は、真心や心遣いからなのでしょうか。あるいは、我慢をしているのでしょうか。それとも無償で協力して助けてくれているのでしょうか。
そんなことが未解決のまま意識過剰になりますと、睡眠の質も悪くなり、力は十全には発揮されなくなるかも知れません。
いくら考えても他人の心の中を百発百中で言い当てるのは困難なのです。けれども、それを言い当てないと、すっきりせず気分が悪くなります。このように、相手を理解しようとすると、意識を過剰にしながら、これは本心だとか、わたしの思い込みだったとかを四六時中していないといけません。
恐ろしいことに、自分が相手の気持ちを早く理解がしたいために、相手の心を無視して勝手に「Vさんはこういう人だ」と決めつけてしまうことはないでしょうか。自分が早くスッキリしたいがために、自分の思い込みは正しいとその人の特性をでっち上げてしまう。ところが、Vさんが意外な側面を見せると
「Vさん、静かだからインドア派だと思っていたけど、スポーツ好きで、キャンプなんかも行くみたいよ」
「ええ!?ほんとうに?意外すぎない!?」
Vさんのギャップに打ちのめされて、この会話の二人は目をピンポン玉のように見開いて「信じられない」を、両手をパーにして表現しています。このように、ギャップの正体は、勝手なイメージでVさんをわかりやすく描いていた、二人の思い込みとエゴイズムと傲慢の産物といえるでしょうし、見えづらかったVさんの本当の心の世界の一部が見えたような気がします。
人のギャップで話者が嬉々として騒ぐのは、ヒトの予想に反して生きても許されるんだという自由への喜びを感じるからなのでしょうか。単に、二人は欲求不満で、Vさんの個性が持っている滑稽さを面白がっているのでしょうか。
ところで、このギャップを許さないシステムがあります。家族機能不全のシステムは、家族構成員の役割を固定します。自由がありません。家族の掟破りのイレギュラー、つまり、家族にギャップを見せようものなら、母はわが子に「お母さんを見捨てるのかい?」とか「父さんはお前に失望したぞ」などとショックを与えて、子どもの心の成長をどうにか凍結しようと心理的苦痛を与える場合があります。
こどもは自立できず、自分を表現できませんから自由や自分の感覚を感じられません。まさしく、力を発揮できません。
「ああでもない、こうでもない」という否定と肯定、そしてまた否定、さらに否定の否定という弁証法によって、人間関係が形成されていると、相手への気づかいで疲弊憔悴するでしょう。
相手に振り回されるとは、この終わりなきループをやめずに、人間に脅えている感覚を手放せないことをいうのでしょう。親がわが子に、この終わりなきループで支配していると、力を発揮できない生きづらさから解放されません。
なぜ、あなたには、そのような脅えや恐怖や不安定がつきまとっているのでしょうか。
ヒトから嫌がらせを受けて、人間になんらかの恐怖心と不信感がありますと、どうすればそんな目にもう二度と会わないかとヒトを観察します。脅えや恐怖から身を守るために、ヒトから見られた自分を意識する傾向は高まってゆくでしょう。
バカにされた、イジメられた、大勢の前で恥をかかされた、変わっているからとちょっかいを出された、体型や顔についてその特徴をしつこく揶揄されたなどが原因で、「どうして自分はこんななんだろうか」という否定感情は、あなたの中で一つの物差しになってゆきます。その物差しは、おおよそヒトを集団の姿でイメージします。そのイメージは、言葉にしていない意識や記憶のやや深いところで、あなたに「ここがダメ!こっちもダメ!どうしてそんなに変なの!?」と文句ばかりを言って不機嫌です。
それは集団的なもの、権威や権力のようなものとしてイメージされますから、独りぼっちの自分がとても非力でどうしようもない存在に感じられます。
「恐ろしい人間社会から自分を守っているつもりだったけど、そのおかげで、長きに渡って本来の自分を見失っていたことに気づけなかった」
自分のトラウマを一つの静物のように観察できる状態にまで思考が回復しますと、こうした自己の逆転劇が展開しはじめます。 過去に、トラウマ体験を克服されたクライエントさんの多くがこのような感想をお持ちです。
「自分は感じるままに生きてはいけない」という感覚がブロックされていますと、今何をすれば、わたしは自分が望んでいるゴールに辿り着けるどろうかという判断は働かないかも知れません。
「おや!?おかしいぞ、このままではいけない」
トラウマ体験はこれをおかしいと感じさせず、トラウマの追体験を繰り返させたり、アルコールなどの嗜癖に溺れさせたりするでしょう。
自分について「はて」と考える力がなければ、せっかく持っている能力は未使用のまま終わりを遂げることになります。
本来の力を発揮できないとは、トラウマによって自分自身の思考や判断力を奪われていることを指すのかもしれません。
「ええっ!?」と相手にビックリされて、自分ひとりが取り残されていたんだと、焦りや恥ずかしさを感じたことはないでしょうか。たとえその相手が一人でも、こういう時はその相手の後ろにたくさんの人間がみんなで驚いているように感じないでしょうか。
「ひとり」あるいは「唯一」恐怖症はここから始まります。「おかしいよ、間違っているよ」と大勢の人間から、指摘されますから、大勢感覚は脅威となります。このみんなの驚愕「ええっ!?」のせいで、自分の感覚は隅っこで小さくなります。自分を探すには高倍率の顕微鏡が必要になります。
けれども、この大勢感覚は、「個性」や「能力」や「自由」にショックを与えて眠らしているとは思っていません。大勢であるうちは、非常に健康で快活で楽しそうに見えます。負の要素が見当たらない、安心できる世界のようです。
「♩キー ドー アイー ラクー♩」という音階のドとアイという音が抜けてキ長調かラク長調で短調のマイナースケールがそこには欠落しています。一見すると、字づらどおり「きらく」に思えます。が、喜と楽ばかりを求めるので体力は必須です。その体力は、自分の怒りや悲しみを封印することに使われます。たとえ相手に哀しみや怒りを感じても、作り笑顔で言いたいことが言えないことに苦しんでいないフリをしなければなりません。
ひとりきりになった途端、溜め込んだド(怒)及びアイ(哀)に押しつぶされて、弱音や心の疲労が無調性の楽曲となって噴き出してきます。
ほんとうのあなたは何を表現したかったのでしょうか。ド(怒)やアイ(哀)の音がその答えなのかもしれません。
みんなに封じ込められたド(怒)とアイ(哀)を開放してあげないと、力を発揮できないのかもしれません。
「わたしは言い訳ばかりしている。でも、他人のミスには非常に敏感な時がある。ああ、自己嫌悪~」
言い訳が多いと、「○○さん、ちゃんと学習してるのかな?」とか「人の話をちゃんと聞いてないんだよ!」などと思われてしまいます。あるいは、邪心があるように勘違いされたり、怠け者や手抜きをする人のように思われがちです。
言い訳には理由や原因があります。心の傷が言い訳をお守りにする。これもトラウマが発生源になっているため、ご本人にはいつまでたっても自分が間違っているようには思えませんので、いくら注意しても聞いていないように思われます。
「言い訳なんて言い方しないで、これは私のお守りだったの」
このようなトラウマへの「気づき」が自分の中に意識できて、感情が解放されると、社会から「言い訳」呼ばわりされた行為は終息してゆきます。
「今これから私がよく生きるためにここですること」への現実感覚を感じられるようになりはじめます。
トラウマが原因で無意識に人から注意、非難されるシチュエーションを設定している場合もあります。オーバードーズするトー横キッズの反社会的な態度に、「だめだよ、ここで集まっちゃ」ぐらいに注意することしかできない、非力な常識たちは、それを正義だと彼らに言い聞かせても、彼らのトラウマは怒りのまなざしでそっぽを向くでしょう。
トラウマの治療には信頼関係と安心感が不可欠です。社会から、言い訳呼ばわりされる不安定な環境では、到底安心感や信頼関係は築きにくいものです。したがって、一般人は、そんなトラウマが発生した地獄めぐりの話を聴けるだけの余裕は持っていません。あなたの心が傷つき、生きづらさを根底から支配しているその繊細な部分は、その聴き手の一般及び常識を崩壊させるだけの心的エネルギーが充満しています。
心理カウンセラーの役目は、トラウマに脅かされた状況からクライエントを解放させること。そしてその人が現実の世界をありありと感じるようになれること。現実の中で、今ここにいる私は何が「したい」かを発見してもらえるようにお手伝いすることです。
「したい」の世界には、言い訳はありません。「したい」には嘘がないからです。嘘のない自分に出逢えると、生きやすさを感じはじめます。そして、ヒトへの感謝の念が生まれ、自分にとって心地よい人間関係が自ずと作られてゆきます。しかし、その「したい」が他者によって操作されている場合もあります。例えば、仲のいい友人や親や流行や時代などです。
「器の小さい人」を以下のように叩く記事はインターネットで多く見かけます。しかし、その記事には、どうして器が小さくなったのかを問うものが、あまり見当たりません。
「器が小さい人」の特徴は以下のように述べています。
1.言い訳が多い⇒自己の現実認知が困難になっている
2.自慢話をする⇒見捨てられ不安
3.嫉妬や束縛が多い⇒愛情そのものにつきまとう疑念がある
4.否定的なことばかり言う⇒警戒心が強く持続的で過剰に否定的な信念がある
5.損得感情で行動する⇒自分以外の他者にまで配慮ができない過度の警戒心
6.何事に対しても短気⇒感情統制が困難
「あの人は器が小さい」という言い方は、ヒトの傲慢さが露骨になっているように感じます。
器が小さくならざるを得なかった体験が、二度とそんな思いをしたくないと心が言っているのでしょう。そのためには、上の1から6をどうしても手放せないと苦しんでいるとしたらどうでしょうか。1~6は、心的外傷後ストレス障害やコンプレックスPTSD障害の症状として発症しているにもかかわらず、社会から「器が小さい」などと揶揄されて、みんなの感覚に無理やり従って、毎日毎日を死に物狂いで乗り越えているのかもしれません。
大勢感覚はこのような暴力で、「いいから私たちの仲間になれば安全なんだから」とおせっかいなおばさんの姿で登場して、はたまたマスコミやSNSを巻き込んであなたを優しく脅しながら勧誘するのでご注意ください。
「ええっ!?知らないの?うそでしょ。今からでも遅くないよ。そんなに暗い顔してるとみんな逃げてゆくよ」
かつて、性格が明るい/暗いを表現する「ネアカ」と「ネクラ」という言葉が1980年代に流行していました。多様性を語れるようになった今の時代の陰に、このネアカとネクラという区分けは形を変えて生きています。暗さから光をつかみ取って、這い上がる個の力をこれと混同していてはいけません。そんな宝物のような力が、あなたの中に隠れていたんだと気づけるように、日々、皆様と向かい合っております。
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