コラム 2025/04/17 (木) 12:36 PM
ハラスメント被害は連日のようにニュースになっています。 社会全体がハラスメント被害者の人権を守り、すべての人が生きやすさを実現できる社会をめざすためにも、ハラスメントは防止しなければなりません。
しかし、この問題には加害者への心のケアの問題が欠落しているように思えます。ハラスメント加害者は法的処罰を受け、反省しても、社会からは非難されるシーンばかりが強調されています。
ハラスメントする人の特徴に、自己中心的、完璧主義、プライドが高い、根性論者、他責思考が強いなど挙げられますが、こうした性格特徴に気がつけない原因は何でしょうか。
「何故、ハラスメント加害者に私はなっていったのか」という加害者の心の状態やその周辺の環境について加害者に語ってもらうことは、きっとハラスメント行為全般の予防策になるはずなのに、社会はそこに着目せず、その多くは魔女狩り的な感情論で終わってしまう場合が多いようです。
ハラスメント加害者も、過去にハラスメントを受けたり、時には暴言暴力などの嫌がらせ行為を経験してきた世代の人々であった筈です。
2025年度の40代から上の世代である昭和の時代は、戦中のの名残が色濃く残る男性社会が権力をふるい、ハラスメント行為は権力の証みたいでした。当時はハラスメント行為を「嫌がらせ」とは感じず、例えば、素行の悪い学生に教師が暴力をふるって負傷させても、その生徒の親は「先生、ありがとうございます」と教師に感謝する親が存在しました。
「いいか、時間がないから一回で覚えろよ」
「お客様は神様だろ」
「勝手なことをするな、父親の言うことが聞けないのか」
過去の誤った教育や指導で、新人社員、学生やご家族、サービス業の店員に、当たり前のように繰り返すハラスメント行為の心理には、虐待の連鎖と同じ仕組みが働いているように思われます。すなわち、愛着トラウマの再演です。愛着トラウマとは、親子関係が安全安心の場にならず、不安、回避、混乱、恐怖に長期間さらされて、心が傷ついた状態が日常になって長期化したトラウマの事です。
「自分たちが入社時代にされた不快なこと、理不尽なこと、その時の状況も知らずに、新人は甘やかされ過ぎた」
「あの先輩のあの厳しさや体罰があったからこそ、今の自分は幹部になることができた。今の新人は甘すぎる、仕事がどういうものか教えてやる」
こうした新人社員への怒りや不機嫌、嫉妬心が頭の中をかすめませんか。ハラスメントは禁止、やってはいけないと身体に言い聞かせても、心では暴言が飛び交っている状態は、健康ではありません。
そして、この負の感情を吐き出したら、自分の言動がハラスメントとして解釈されてしまうのではないか、、、とついつい憶病になり、心と表情とを分離させながら、褒めて育てるストレングス視点を「これも仕事だ、仕方ない」と実践していると、強度のストレスで不機嫌のやり場に困ってしまうのが今の社会の実情ではないでしょうか。
「今日から私があなたの上司だ。上司は親も同然だ。まず、その服装、髪型は何だ。心を見せて見ろ!気持ちが伝わらない。気合いだ!それは男の仕事だ、○○ちゃん、お茶お願い! おれの若いころだったら殴られて当然だったぞ。風邪も二日酔いも病気のうちに入らないんだよ。この飲み会に参加しないってことは、どういうことか、わかってるのか?会社をなめるなよ」
自分の心の傷に気がつけず、その傷を勲章にしている世代の心の中では、こんな感情の声が聞こえてくるのではないでしょうか。
「何!?心の傷だと、おまえは女か、傷なんか放っておけば治るんだ」
こんな自暴自棄の言動と覚醒の強さも、ある種のPTSD反応に思えます(不適切な表現を使用してすみません)。
かなり誇張しましたが、こんなセリフがハラスメント以前の時代には飛び交っていたと思いますし、引退した上司から言われたり、聞かされたりし続けてきた昭和世代は多いのではないでしょうか。この声が聞こえるたびに、体はこわばり、ぎこちなく、もやぁ~としたストレスを感じることはないでしょうか。
それにしても、インターネットで検索しても、こうした世代を含めたパワハラの加害者のケアは見当たりません。ただただ加害者の罪をインターネット、SNS、TVなどで取り上げて、「一体、今の時代を何だと思っているんでしょうか」、「まるっきり江戸時代か昭和ですよ、この上司の対応は」などどコメンテーターに呆れられて何らのケアもされません。
ハラスメントというコトバがなかった時代はほんの数十年前です。そのハラスメントがなかった時代に暴言暴力は愛ある教えとされて、その時代の人間は上司や教師、親やお客様などから学んで来たのです。この構造は、戦時中の軍国主義から「みなさん、明日から天皇はいいので、民主主義になってくださいね」という戦後の日本政府の方針とそっくりには感じませんでしょうか。
つまり、この時代の急激な変化に、多くの中年期から老年期の男性女性の傷ついてきた心がまるっきりケアされないまま、新しい時代の旗手「ハラスメント」を神にしなさいと言われても、中年老年人間たちの無意識には、若い世代への嫉妬、怒り、それを抑え込む意識との葛藤、厳しかった上司から受けた教育という名のトラウマの再演などが喉元まで出そうになるのも当然のような気がします。
デジタル大辞泉によれば「嫌がらせ」とは、「相手の嫌がることをしたり言ったりして、わざと困らせること。 また、その言行」という意味です。今日、この「嫌がらせ」を「ハラスメント」と呼ぶことが定着しています。
嫌がらせをする人は相手を困らせます。 相手を困らせるとは、どういうことでしょうか。相手を理解しないことです。そこには相手の立場が欠落しています。それ故、加害者は「被害者が私に好意を持っていたから私は悪くないという認識でいます」などと供述する場合は非常に多いです。
嫌がらせは、ハラスメント加害者の欲求や願望でしかありません。しかしその欲求や願望を相手(被害者)が望んでいるものと加害者の無意識は解釈します。そして、それを好意(ハラスメント)として誤認します。
精神分析では投影(projection)、行動化(acting out)、ゲシュタルトでは取り入れ(introjection)、自他の融合(confluence)、幼児期に退行(regression)している場合は、愛着トラウマの行動パターンが幼児化によって無責任な大人を繰り返しては、合理化によって辻褄合わせをしている場合もあります。これらは無意識の行動のために、加害者本人が直面化(トラブルを起こすなど)しないと、気づきが生まれない場合もありますから厄介なところです。
嫌がらせ(ハラスメント)行為は、こうした心のメカニズムへの気づきを、加害者に持っていただかなければ、そのハラスメント加害者は「どうしてだろうか、また同じ過ちを繰り返してしまいそうだ」という悪循環の中で、社会的信用を得られないまま放置されてしまうでしょう。
例えば、わたしたちがスピード違反で白バイに見つかりますと、その罪を棚上げして、見逃してほしさに弁解し、それが却下されますと「自分は不運だ!捕まってないクルマだってあるだろ?」という、法を越えた判断を人はよくします。
人間に法律が必要なのは罪と罰の可能性がどんな人間にも必ずあるからでしょう。罪の可能性を持っていない人間はいません。人類全体が生きとし生けるものに罪を犯しそうな状況が設定されています。すべての人間は状況や環境で悪にでも善にでもなります。
全ての人がこの罪の可能性を感じていれば、加害者を誹謗中傷するばかりの優勢主義、自分たちは正常でまともな人間、彼ら(ハラスメント加害者)は異常な罪人にちがいないという、民衆心理の罪に対する日常的偏見を和らげ、罪人が自分の愚かさに気づきを持てる社会になるのではと思ってしまいます。
「善人なおもて往生説く、いわんや悪人をや」の寛容論は、すべての人間の最後の砦でです。
罪も罰も野放しの世界には、暴力や理不尽、支配、服従など、弱肉強食の理論がはびこり、悪の感情ばかりで世界は埋もれてゆくでしょう。そして人権は衰退し、滅んでゆくでしょう。
「人を傷つける事」と「歩行中の信号無視」、どちらも罪です。
「歩行中の信号無視ならともかく、人を傷つける事となると、、これはもう人の道にはずれている」
けれども、どちらにも罪の要素があります。こうした言い回しを世間一般は屁理屈と呼びます。 しかし、この「屁理屈」という呼び方がすべての人間を傲慢にしてしまう原因ではないでしょうか。
芸能人が不祥事を起こすと、SNSなどで誹謗中傷が瞬く間にはじまります。見えない場所から誹謗中傷するネット民は、過去に信号無視を、あるいは、スピード違反を、公私混同による不正行為を全くしていないとは言えません。
悪に関係しない人間はおそらくゼロでしょう。不祥事でイメージ丸つぶれの芸能人もこうした誹謗中傷のネット民も同類です。仏詩人ボードレール著『悪の華』序文の最終行
偽善の読者よ、同類よ、わが兄弟よ!
という一節が浮かんできます。
ハラスメントする側の心理には、傲慢、万能感、私は特別、身の程知らず、突破的行為、魔が差す、欲望を抑えきれなかった、自己愛、私の正義と誠実さ、道徳などがあります。
私だけが許されるという判断や、人や社会はこうあるべきだと、良かれと思ってしたことが、相手や世間から非難され、訴えられ、バッシングされ、袋叩きにされます。
ハラスメントの加害者は自身の傲慢さに後悔します。一方のバッシングする側は、自分の中には罪と罰の可能性が、さも存在しないかのような傲慢さでハラスメントの加害者の人格を、時には好き放題に否定し続けます。ふたつの傲慢さの裏側には、どんな装置が隠れているのでしょうか。その装置を穏やかに幸福をもたらす装置にはつくりかえられないのでしょうか。
こうした傲慢さの治療、言い換えますと、ハラスメント加害者の治療を語る人は非常に少ないように見受けられます。
令和5年9月1日改訂版の厚生労働省『ハラスメント防止に関する指針』のPDF4頁の5.ハラスメント発生時の対応の中でも、ハラスメント被害者へのアフターケアを含んだ配慮措置はありますが、ハラスメント加害者に何らのケアはなく、厳正措置のみとなっています。
ハラスメント加害者は、その嫌がらせを嫌がらせと自分には思わせない仕組みが心の中に形成されています。その数例を挙げてみます。
感情転移:精神分析の概念である感情転移は、その感情が、実は隠れている人物(親や過去の恋人など)と本人との間の感情であることに気がつかないと、暴走してハラスメント行為に及んでしまう場合があります。
親代わりに親身になって相談に応じる上司と部下が、一線を越えて恋愛感情を持ちはじめ、セクシャルハラスメントに発展するケースです。教師と学生、医師と患者などの関係は、この感情転移への気づきがないと、人の人生を狂わせてしまいます。
専門職が自分を見失わないために非常に大切な視点がこの「感情転移」の視点です。この「感情移転」は、日常レベルですと「妄想」と呼ばれています。恋愛感情など好意ある妄想は陽性転移、憎しみなどの妄想は陰性転移と、心理学では呼ばれています。陽性の妄想はファンタジーで主観性の世界ですから、そのハラスメントが被害者にとって悪意ある行為などど解釈することが非常に難しくなります。ストーカー行為はその典型でしょう。
トラウマの再演:親から受けた虐待を、虐待と思わない。むしろそれを愛の鞭や自分を愛するための親の教育であると疑いすら挟んだことのない方は、「暴力、暴言=正しい」と解釈するでしょう。ちょっとの間違いがストレスになったり、不安過ぎるあまり何度も人に聞かないと作業が進まない。あるいは、仕事でリスクを負うことを毛嫌いして、1+1=2以外はやりません的な発言が多いため、部下の小さなミスにすら大きな怒りを感じては抑制していますから、パワハラの上で綱渡りをしているようなストレスを感じてしまいます。子どもに対しては門限に厳格で1分でも遅れると「どこへ行っていたんだ」と問い詰めて恐怖を与えます。
怒りへの嗜癖:ここにもトラウマの問題があります。PTSD障害の症状である過覚醒や自己破壊的な行動は怒りに嗜癖します。怒りはアドレナリンを分泌するため脳の活動が高まります。それによって仕事が早い、効率のよい仕事をしますが、PTSD症状の集中困難もありミスも多く、評価されないと仕事の遅い部下や同僚に人格を否定するような言動が多くなったり、イライラが止まらなくなり、ハラスメントに発展します。
ハラスメントする側の治療やケアが軽んじられている原因は、ひとりの罪人を見ると「自分たちはあのような罪人でない」と区分する無意識的な判断のせいではないでしょうか。われわれは安全で正しい人間だから、罪人になってしまう可能性も自分たちにはないと無意識に判断する、こうした人間の認知の浅薄さが由来するのでしょうか。
「お母さん、僕はやってないよ」と子どもが叱られている他の子どもを見て、その叱責行為の恐怖から、自分は正しいので何も罰則はないと確認する作業が、この構造の原点のようにも思えます。
生まれながらに罪を犯す状況が設定されている、わが同類であるすべての人間として、このハラスメントする加害者側の心のケアにご興味があり、ストレス、苦しみ、生きづらさを感じていらっしゃいましたら、ご来室をお待ちしております。
●ご興味のある方はこちらからご予約を頂けます。
【執筆者情報】
大塚 静子
資格
所属学会
経歴
研究実績
研究実績はこちらをご参照下さい
著書
『甦る魂』はこちらをご参照下さい
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