コラム 2024/06/07 (金) 12:30 PM
協力し合って、幸せな関係をこのパートナーとなら思い描けたから一緒になったわけで、争い合う戦場の真っただ中、銃をもったまま緊張しながら肩で呼吸をするために一緒になったわけではない筈です。どうしてこんな方向に脱線したのかと聞くと、相手を責めるだけで何ら進展がない。今回はそんな話です。
権力への欲求は誰にでもあります。お互いが相手の権力を時には認め、時には待ったをかけて調整することができれば、おそらく、そのご夫婦やカップル仲は問題なく安定した日常生活を送るでしょう。けれども権力には恨み、憎しみ、見返してやりたい、嫉妬、怒り、寂しさ、強い承認欲求などが隠れています。いわゆる、コンプレックスと呼ばれるものです。
コンプレックスは、平等や思いやり、感情移入、共感性を苦手とします。ただし、後悔の念がその出来事が終わった後で、追いかけるように襲ってくるのが常でしょう。たとえば、相手との会話が自分の得意分野で、待ってました(承認欲求)とばかりに饒舌にその分野の話を立て板に水で語りますが、「Aさん、そんなのも知らないの!?」みたいな発言をしたことにあとで気がついて、余計な一言で相手を不快な目に会わせたのではと1日中考えてしまう、そんな経験はないでしょうか。
このようにコンプレックスを下地にした権力欲は承認欲求でもあり、盲目から我に返ると自己分析をして「私が悪い」というコンプレックスの方向へ再び着地してゆく運動を心はよくしています。しかし、コンプレックスの強さによっては内省することなく、盲目のまま突き進んでゆくタイプもあります。現実が見えないこの権力は、自他共に心と身体に害を及ぼす行為を日常化させます。
2022年2月24日にはじまった戦争は、未だ解決の糸口を見つけられずにいます。計り知れないほどの死者や負傷者、難民を出し続け、なおも停戦の合意に至らない状況を見ると、権力が如何に過去の歴史から何も学べないことがわかります。権力は頑固で学習しませんし、良かれと思った権力者の幻想にわれわれは付き合わされる羽目になります。それは国と国との争いだけではなく、われわれの人間関係、親子、家族、友人関係、会社の人間関係など、関係と名のつくものにはおおよそこの病いがつきまといます。
わかり合えないこと以前に、その理解とは何でしょうか。それは願望です。私を理解してほしいという願望です。安定した承認を欲しがることです。安定した承認欲求の裏側には必ず孤独感とさびしさがあります。
仲のよい安定した関係は、お互いを尊重し、相手が喜ぶこと、楽しいこと、幸せになってくれることに協力し、助け合いながら健康で充実した人生を送れるように願い、それを実践するでしょう。恋愛、結婚、ご夫婦、家庭を持つなどはこうした考えが根底にあり、深い信頼関係の上に成り立ちます。しかし、相手の価値観や振る舞いなどに自分との差異を極度のストレスを感じる時、その孤独感(権力)は相手への秘密警察となってパートナーの自由欲求を監視しはじめます。
その監視は「そのやり方はおかしい」「わたしをバカにしていないか」「わたしよりも仲の良い相手がいないか」「門限厳守」、「どこかで私よりも楽しんでいないか」、「あなたはいつか急にいなくなってしまうのでは」などの思いにとらわれて、日常のほとんどが相手の自由欲求への監視に使用されてしまいます。
どうして相手の価値観や振る舞い、表情や表現を監視するような孤独感(権力)にあなたは振り回されてしまうのでしょか。
「自分の感覚は、実は十分に機能していない」
これを知らないと私とは一体何者かわからなくなります。
取りあえずは、流行などの社会的ステータスを求め、その真似をすることでその場を乗り切る社会生活をすることになります。そのまま気づかずに何十年も経過する人や、的外れのまま自分の感覚を感じることができずに一生を終えてしまう人もいます。
自分の感覚について何もわかっていないと、自分がどうしてよいかわからないのは当然です。私の欲するものがほんとうはわからない。ただ、相手がいるという具体性のみが独り歩きしているだけで、ある種、カップルやご夫婦を演じることへの安心感が優先しているだけの場合があります。
こうした模倣行為(型)だけを演じる夫婦を仮面夫婦などと下世話には呼びますが、型を間違いなく演じることが最重要視される関係は、古典芸能を演じる芸人や役者なみの純粋さや極みや巧みさへと向かわせます。その窮屈さで関係は強いストレスにさらされますから、日常的に欲求不満となり、その矛先は相手の振る舞いへの攻撃となって表れます。実像の相手すら見えていないのですから、お互いが理解し合うこととは程遠い所に行ってしまうのも当然です。
しかし、お互いが対立する仮面夫婦である以前に、それはあなたの問題です。相手が問題なのではありません。相手がいると自分の問題を相手のせいにしやすくなります。私の中の「自分がどうしてよいかわからない」が孤独を感じると側にいるパートナーや季節、気候、厄年、方角、2024年の運勢などのせいにしたくなります。自分への感覚が闇の中に放り込まれていると、それに松明をかざして神秘を明るみに晒したくなるプリミティブな状態で安定しようと心は判断します。これは自己への客観性を大きく狂わせる原因にもなるでしょう。すると「わたしはこうしたい」という願望がことごとく誤った判断に導かれてゆくでしょう。
「理解し合うこと」とは、相手を理解しようとする前に、自分の感覚を知っていないと間違った方向に進みます。間違った方向に進んでしまうとは、相手をチェック、非難、コントロールばかりする負の状況を呼び込むことになります。ちなみに過保護、過干渉は、養育者から受けた監視、コントロール、嫉妬、怒り、虐待をパートナーやわが子に投影している場合が多くあります。
そして、争い合い、何も解決せず、悪化の一途を辿るはめになります。自分の感覚がわからないとこれを何遍も繰り返します。トラウマにはこうした負の再演が必ずつきまといます。また、トラウマの恐怖は頑なにこの罠に引っかかろうとします。「失敗した、ダメだった、やっぱりいつも情けない恥ずかしい私、、、、」この「やっぱりいつものダメな私」にトラウマは安心感を求めます。ここに停滞して自己否定をやめられないまま生きていると、鮮やかな色彩で彩られた私の感覚を知らずにいることになります。
「わたしには好きなものがないようなあるような、、、、、でも嫌いなものを語る方がとても簡単だ」
このようなマーブル状のハッキリしない心の状態から好きなものだけを拾い上げる力を、皆さんに発揮してもらえるようなお手伝いをさせていただきます。
「わたしも好きなことを遠慮せずに楽しんでいいんだ」という自己定感が憎たらしく思えてしまい、相手を責めるばかりでわかり合えない毎日に生きる楽しさにを見失っていると感じていたら、ご来室をお待ちしております。
●ご興味のある方はこちらからご予約を頂けます。
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