コラム 2024/08/03 (土) 12:22 PM
・言われてみると自分は「努力は報われる」という言葉を信用していないし、そのフレーズに恨みさえ感じる
・結果がいつもおかしなことになっている
・何か回り道ばかりしているような気がする
・自分への不甲斐なさに潰されて諦める生き方を選択している
・楽しい人生があるようにつまらない人生もある。自分は後者に属している
・きっと自分は頭が悪いんだ、要領がわるいんだと何となく感じてしまうことが多い
上記のような心の声が、普段聞こえてますでしょうか。その声は自分を否定ばかりします。けれども、そんな自分がやめられず、何度も何度も、何年も何十年も繰り返してしまう。
「わたしはこういう人間だ。もう変わることはないだろう、、、」
不思議なことに人間は、その役割が不快でも、役割というポジションや任務、目的を与えられ、それを遂行すると、そこに快不快の感覚を二の次にして同一化しようとします。
人の役割とはお酒に似ていて感覚を酔っ払わせてしまうようです。リズミカルなベルトコンベヤーの流れ作業にいつの間にか没頭してしまう。けれども、やりたくてやっている訳ではない体験と似ているような気がします。
役割を与えられて自分に酔っ払いはじめると、その役割と同一化することが生きる目的となり、自分の中の快不快ややりたいことへの感受性を麻痺させます。
・破壊的:部下を恫喝する
・自暴自棄:評価されないと感情的で話にならなくなる
・無茶をしていると覚醒してくる:熱血社員
・無気力:誰も評価しない見捨てられ感への復讐と怒り
悲しい思いをするときっと誰かが「どうしたの?大丈夫?」と気にかけてくれるから自己否定感は放棄できません。
こうした性格で悩む場合、多くは対人関係が苦手になります。対人関係が苦手なのに相手を求めてしまうから、精神は不安定で葛藤状態に陥っていますが、幼少期から葛藤する対人関係をたくさん経験しているので、当人はそれを不快と感じていないのです。
たとえば、
「Aさん、疲れてない?手伝うよ」
「全然、大丈夫、むしろ、力がありあまってるし」などと、気持ちとは反対の表現が無意識に飛び出してしまう経験はないでしょうか。見栄や虚勢をはっているつもりはないのに、何故か楽になっていい状況ややさしい言葉を掛けられると、ほんとうのことが言えなくなってしまいます。
どうして素直に本当の気持ちを相手に伝えられないのでしょうか。相手に「私、疲れたから変わってくれる?」とお願いしたとしましょう。
その時の「休んでいる自分」を感じることはできるでしょうか。
3分間ほどそれを感じたり、想像することはできるでしょうか。
「 」
プラス思考につながりそうな声が頭の中に聞こえましたでしょうか。
あるいはマイナス思考の声だったでしょうか 。
マイナス思考の声はあなたを安心させません。
「Aさんに変わってもらって私は休んでるのに、お礼を言って終わり!?私が休んだ分はちゃんと別のかたちでお返ししなければダメだし、失礼よ。」
こんな声が聞こえてくるぐらいなら、いっそ自分一人であれもこれもやってしまった方が楽だという判断をしていると、人は本当のことを相手に言えなくなってきます、否、相手に本当のことを言わなくなります。
そして、対人関係で人のやさしさや大らかさ、好意や援助に遭遇すると、「今ここで優しくされたら、あとが厄介になるにちがいない」という条件付きで感じとってとってしまう思考パターンが改善するとは、当人は思っていません。
幼少期はどんな子どもも素直な側面を見せてくれます。子どもは「ダメよ!」と養育者が注意しても素直な気持ちと好奇心から親の「ダメよ!」をやってしまいます。
しかし、こうした子どもの素直さに養育者が無条件の微笑みやさしさ、寛大さを一度さえ見せてくれなかった環境下の子どもは「それをやったら、どんな目に会うか○○ちゃん、わかってるよね?」という養育者からの脅かしや恐怖、不安ばかりを感じるでしょう。
自分がやってみたいことをやると、ただでは済まないのだったら、もう自分は誰にも本当の気持ちなんか見せるもんかという怒りと自暴自棄を無意識に落とし込んでいるかもしれません。
わたしは今ここにいてもいい
わたしはやってみたいことをやっていい
わたしはわたしを楽しんでもいい
これら3つの「いい」は養育者の共感、無条件の肯定、受容的態度がミックスされた、別名「愛情」と呼ばれるものです。愛情を示されると「条件つきだ!」と不安になり、されたこと以上のものを相手に奉仕してしまうからくりはこれが発生源になっている場合もあります。
トラウマを抱えている人は、生きづらさの問題を抱えています。生きづらさに加えて、自分が自分でない感覚の解離症状もあり、「わたしは生きている?」という自己確認と相手の反応を確かめるために、自傷行為や無茶な行為、突飛で危険な場所や不幸、恐怖を再演します。
こうして何度も何度も、受容、共感、無条件の肯定がこの世にはあるのだろうかと無意識は相手の反応を確かめます。しかし、相手(養育者、恋人、友人など)から否定されたり、拒否されたり、「お願いだから、もうやめて」と自分が安心を求めた筈が「わかった、もうやらない」と相手を安心させる側に着地しますから、一向にこの問題行動はおさまりません。
心の感覚麻痺を解くには、幼少期のトラウマ体験は過去のもので現在を脅かすものではないという健康な現在性を回復する必要があります。簡単に申しますと、幼少期の「なにやってんだ!ダメだぞ!」、「何度も間違えるな!バカ!」から解放されることです。
幼少期、あなたが「やりたい」と思ったから、実行したのはそれが「快」だったからでしょう。幼少期、あなたが「何度も間違えた」のはそれが嫌で「不快」だったからでしょう。
そんな快不快の感覚なんか、いつもちゃんと感じていますと仰る方はたくさんいます。しかし、それが機能していないで、日常生活に楽しみを感じられない、パフォーマンスも上がらない、対人関係でトラブルが多い、といった問題が起きています。
当相談室ではこうした心の感覚麻痺を改善し、これまで多くのクライエントの皆様の快不快感覚と「本当は私はどうしたいのか」を具体化させてきました。
「何となく心の感覚麻痺が、、、」とお心当たりがございましたら、ご来室をお待ちしております。
●ご興味のある方はこちらからご予約を頂けます。
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