コラム 2024/03/28 (木) 2:38 PM
「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」は俗に「毒親」と呼ばれてますが、通常であれば、危険や不安,不快、苦痛を感じるものの側にいれば、それを反射的に回避しようとするのが健康な精神状態の特徴です。しかし、わたしがいないとどうにかなってしまうという不安から、その毒環境に居続けてしまう。
その心理状態は、言葉で「マインドコントロールだ」、「愛着の仕業だ」とわかっていても、行動に移して心に悪影響を及ぼす環境から今すぐに解放されようと、身軽に環境を変えられる人は非常に少ないでしょう。多くの心の病は、私自身が感じ、考え、自分の判断で行動するという自発性の機能不全が起きています。
「あれ?やっぱりこの人生はおかしいぞ」
「頭の中のわたしの声はいつも愚痴や不満ばかりだ」
「頑張ったのに、誰も評価しない」
「どうせわたしはダメ人間」と言われてるような気がする。
たとえ不満や愚痴、マイナス思考が多くても、家庭では親、職場ではスタッフたちのことが気になるから、実家を出ないし、上司に待遇改善を要求したり転職もしない。
「わたしがいないと、この親はどうなるだろうか」
「私がやらなければこの職場のチームの業務が回らなくなる」
と時々、暗い妄想に襲われて、イライラしながらその対策を考えてばかりいますから、自分を感じることへの時間はほんのわずかになってしまうでしょう。
このやめられない思考パターンに、負の愛おしさ(そんな愛おしさがあればですが)さえ感じてしまいます。 これもまた毒親環境の罠と思って、今一度、その気持ちを括弧でくくって、遠くから観察してみることはできますか。すると、自分の自発性には、妙な罪悪感や苦痛なうめき声が纏わりついていませんでしょうか。
「その悲しさや恨み、寂しさ、苦しさは私のもの?親のもの?」
けれども、私がこの家を出ると、もっと心配や不安や恐怖が束になって襲ってくる気がする。上司に待遇改善を訴えた後のことを考えると、その振る舞いがぎこちなくなって、今以上に頑張って期待に応えなければと人間関係にさらに過敏になり、やはり不安が襲ってくる。まだ、現状維持の方がマシなんだろうと、解釈します。が、やはり
「あれ?やっぱりこの人生は生きづらいぞ」
「なんで頭の中のもうひとりのわたしは寂しがってばかりいるんだ」
「学歴も資格も経験もあるのに、わかりやすいハキハキワイワイの爽やか社員にどんどん抜かれているような」
けれども、、、、と、その葛藤が継続すると、自分の頭の中の声にばかり意識が向かうため、今ここにある私の現実に見誤りや勘違いなどの錯誤行為による失敗やトラブルが続き、さらに自分を否定的に認識しはじめる原因にもなるでしょう。しかし、自己を否定して不幸を演じれば、みんなが私にやさしくして、振り向き、気にかけてくれる気がするから、この生きづらい環境に過剰適応してゆくことになります。
「大丈夫?」「手伝うから、頑張らないで」「すごい!でも抱え込みすぎだよ、○○さん」
しかし彼ら彼女らは、この気づかいの声掛けをどんなに求めても、「大丈夫だよ」と遠慮したり、自分を空気のように振る舞って、存在しないポジションを選んだりします。人への信頼と安心感が、無防備で危険に晒されるのではという不安に置き換わります。 トラウマ治療で、心の安心を感じられるようになりましょう。
幼少期の恐怖体験は少なからず、誰でも持っているかも知れません。
毒親に育てられた人の場合、恐怖体験が未解決のまま現在もその当時のように生き続けて不安を抱えています。その方が、家族システムにとって都合がよいからかも知れません。
自分はあの時の恐怖体験から、今は守らてれいるからもう安心しても大丈夫と認識できないと、人間不信や社会恐怖と共に生活してゆかなければならなくなります。そのケアを根性論や気合い、道徳論に置き換えるのが毒親の特徴です。
複雑性PTSDのように、あまりに日常化した恐怖体験のトラウマは、安心感が恐怖の引き金になっています。安心するとフラッシュバックの恐怖が襲ってきますから、その恐怖を回避したいがために、感情を麻痺させて生きづらい環境で持たなくてもよい罪悪感をもって本来の自己と出会わないように心をコントロールしています。
しかし、そのコントロールに用いるエネルギーは、本来、自分がやってみたいことへ使用するべきエネルギーなのです。アクセル全開で踏み込んでブレーキをかけ続けますから、ブレーキも相当な負担を強いられますし、エネルギーも「そんなもののために使いたくない!」という気持ちが隠れていますから、その心的負荷はストレスとなって、精神疾患として表現されます。
こんなエネルギーの無駄遣いから、解放されるためには、自分のものと親や他人のものをハッキリ区別する作業が必要です。人の不安は人に返す。
それって私の苦しみ?それとも親の、、、、?
わたしのものではない。この自他の整理整頓ができると、心に安心スペースが生まれます。そこに昔ながらの罪悪感を持ち込むと、再び自他が混同しますから、「わたしは自他の区別に、今気がついている」という気づきがぼやけない治療をしましょう。
心の病は、自己の欲求の屈折した心の声です。
「私はみんなに私が感じたことを言いたい、そして、変わりたい」という気持ちの現われです。
心の病は社会性(親や世間)など度外視して今度こそ私の願望を手に入れてやるというダイナミックでクリエイティブなあなたの心と身体の声です。
心に元気がないのは、私の内側に不便や不自由、怒りや文句、訴えたいことが充満しているからかも知れません。あなたの心に元気を出してと世間は言うかもしれません。けれども、逆説的ですが、元気など放り投げて社会と多少距離を取らなければ思考が正常に働かない状態が心疾患です。
心の病には回り道が必要かも知れません。今まで他人の事ばかりで自分に贅沢をしてこなかったのだから当然です。回り道によって、自分が気の毒すぎると感じた時に、あなたの現実ははじまります。自分を愛おしいと思う気持ちを共同で育ててゆくのが心理カウンセラーの役目です。あなたがあなたを愛おしいと思う心を大きく育てましょう。
家族や他人に申し訳がないと思う前に、自分はどうしたいのかが優先していますか。
マイナス方向からやってくる自分を手放せないため やっている事がことごとく自分の気持ちにとって嘘になっている。 その代償は人からの賞賛で一時的に解消される
しかし、賞賛を求めることが長期化すると、心地よかった筈のものが不快になってくる
親や他人よりも自分を優先することが実は出来ていない。出来ていないのではなく、ほんとうは自分を優先することを知らない。自分を優先させることを教えられる環境が家庭の中に欠落していた。
自分の順位と親や他人の順位を入れ替えるだけで、楽に生きてゆけるのにそれが信じられない。楽どころか雷が落ちる。親の苦しむ声や泣き声が聞こえる。罪悪感が大きくなる。
心から楽しんだり、いい思いをしようものなら、みんなの声がこんなふうに言うかもしれません。
「そんなことしていいと思っているの?」
「あなたはいいわねぇ。自分を楽しめて、、、」
「あなたの笑顔なんか、見たくない、さようなら」
私がわたしを楽しもうとすると、ピーとホイッスルが鳴って、上のような嫉妬の声に圧倒されて、つまらない人生の自分を演じてしまいます。 この不快な嫉妬の声が聴きたくないがために自分を罰して自己肯定感を持っていないように見せると、親も職場の人たちも不快には見えないような気がするのは、実際の、今ここにいる私への認知が、トラウマ体験によって歪んで見えている場合があるかも知れません。
こうした嫉妬の声は毒親環境への過剰適応や、自分が楽しいとき、うれしい時に、必ず文句を言ったり、調子に乗るなと脅しや暴力を振るわれたりの恐怖体験がトラウマとして潜んでいます。毒兄弟、毒姉妹の場合もあります。
嫉妬の声から解放されて、自分への安心感を大きく、大きくしてゆきましょう。
●ご興味のある方はこちらからご予約を頂けます。
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