コラム 2023/06/18 (日) 12:22 PM
人間の元気ややる気はどこから生まれてくるのでしょうか。
・心の欲するままに動くと
・皆が認めてくれること
・自分の限界をわきまえていること
・今日はついている/ついていないという偶然性の判断に依存しないこと
・自然体が維持できること
・明日に目標を感じること
・他者に穏やかな気持ちで接することができること
ざっと書き出すと、上のような状態で生きていることが、元気ややる気を人間から引き出してくれるのではないでしょうか。これらの要素を持つ人物に出逢うと、私にはないものをこの人は持っているというリスペクトを感じますから、その人の周りに人々は集まります。
「○○さんにあやかって」などと表現されたりしますが、この「あやかる」という言葉の裏側に、実に多くの人々が生きづらさを感じているかがわかります。
その生き方にあやかれば、元気の秘訣が盗めるかもしれないという思いが、時にファンというコミュニティ集団を形成します。大リーグで大活躍の選手が卑近な例でしょうか。その選手から感じることは、人生の役割と目標と居場所が明確であるということです。
自分の状態や能力を確実に捉えていなければ、大リーグであのような成績は打ち立てられません。自分のことを非常によく精密に知っているからこそできることではないでしょうか。
言い換えますと、「今の私の夢は○○だから○○をしてゆくことだ」という自己の現実感覚が鮮やかかつ明確であると、夢を実現しやすくなるということでしょう。自分の夢は地に足がついていると表現できましょうか。
しかし、これが非常に困難を極めます。いかに多くの人たちが、これが出来ずに回り道をしては考え直したり、判断を誤ったり、他者のせいにしたり、他者とトラブルになったり、一か八かの破れかぶれな運試しの行動をしているかは、世の中全般がそれを商売に成り立っている産業が、いかに多いかを振り返れば一目瞭然です。
心理カウンセリングは自己を知ることを明確にする作業でもあります。「私はほんとうはどうしたい?」この疑問符に自己のほんとうの現実感覚を呼び覚まし、身近なところから徐々に生きる元気ややる気を回復させる作業です。
問題のない程度であればよいのですが、衝動買いで「たくさん洋服を買った」やストレス発散の飲食で「美味しかった」、飲み会で愚痴を言い合ってすっきりしたなどの欲求解消を目標としてしまう生き方は、世界中の人間がやっているごく日常的な行為という集団に包み込まれるイメージが浮かぶかも知れません。
それ故に、簡単に常習化しますが、家族を顧みない、家計費を入れない、借金をする、体を壊すなどの問題行動の入り口にもなってしまうかも知れません。結局、みんなが当然のごとくやっているごく普通のストレス発散(ガス抜き)を続けていると、耐えることや我慢を強いられる世界に明日から逆戻りします(仕事に行きたくな~い!)。再びストレス発散を繰り返すことの悪循環に終始するでしょう。
こうしたストレス発散(ガス抜き)を生きる目的や甲斐性とせず、皆様が自分を感じることに幸せを覚えてほしいと思いながら、心理カウンセリングに携わっております。自分を感じるとは、「ほんとうのは私は○○がしたい」を素直に、正確かつ鮮やかに表現できるということです。自己の現実は今ここにあります。
「私の今ここ」への理解が深ければ、最近流行っている蛙化現象のような判断の誤作動も起きません。ところで、蛙化現象とはどのようなことを言うのでしょうか。
蛙化現象の元ネタになったグリム童話『蛙の王子』のあらすじは以下のとおりです。
とある国の王女が金の毬を池に落として困惑しているところに突如蛙が現われます。王女は毬を取ってくれたら望みを叶えるという約束を蛙とします。蛙の望みはお城で王女と食事をして一緒に寝ることでした。蛙の望みを叶えようとしますが、王女は激しい嫌悪を禁じ得ず、蛙を壁に投げつけます。壁に投げられた蛙は魔女からの魔法がとけて美しい王子様の姿にもどり二人は恋に落ちて結ばれます。 蛙化現象はこの童話を逆の意味に捉えています。
式化しますと
好意+好意=嫌悪 として捉えています。
好意を持っていた相手が自分に好意を示すと、突如嫌悪の対象に変化する現象と定義されています。「蛙化現象」は跡見学園女子大学教授・藤澤伸介の調査から誕生した言葉です。2004年(平成16年)の報告では、異性交際経験のある女子大学生58名中40名が「蛙化現象」の体験者との報告がありますから、ほとんどの人がこの現象を感じています。
一般には、「若気の過ち」と呼ばれる判断ミスですが、この判断ミスを重ねることで私の望む現実のパートナーを見つける手掛かりにもなっていたりします。
人生に役割と居場所と目標が失われていることほど、苦しい状況はありません。 未来や希望を見つけ出せない、仲間に入れない、自分の所属する集団で疎外感を覚えるなどの心の状態は、元気や生きる希望を奪ってしまいます。
「私は一体何者なのか?」、言い換えますと「私は何がしたいのか」がわからず、手当たり次第にあらゆる状況に自分を投じてみたものの、やはり理想とは違う、すぐに冷めてしまう、三日坊主とは言わないまでも、半年坊主、一年坊主で集中力が持続しないという問題の背景には何が隠れているのでしょうか。
あえて人らかのアドバイスを受けなくても、「ゴールをめざして○○になろう」という肯定的自己同一性を感じることが、すべての人間にとっての充実した人生の形式になていることを誰もが知っています。
それ故に、この充実した人生の形式に自己を当てはめてみたものも、思っていたのと違う、こんなはずではなかった、もう二度とこれはやりたくないと感じて、その原因と対処法を自己自身の中に見つけ出せれば、状況は改善され、自分の内面の成長を感じる筈です。
ところが、その原因を内省しようとすると、重量のある雨雲がどんよりと頭の中に立ち込めて憂うつに襲われてしまうような経験はないでしょうか。現代社会には気晴らしに最適な情報ツールがたくさん溢れていますし、時間もかからずスマホや物流があなたの元へすぐに届けてくれるでしょう。
しかし、これが仇となって、あともう一歩なのに、再び世界中の人たちがやっているストレス発散の常習化へと引き寄せられてしまいます。蛙化現象が着目され問題視されているのは実はこの部分なのではないでしょうか。
蛙化現象の問題対象は「恋愛」です。自分がどのような人に好意を持つかということが問題となっています。しかしその「好意」が現実にはプラトン哲学のイデアばかりが肥大した一方的な理想像を生んでしまっているようです。
社会環境が実際の人間よりも情報にという間接的なツールに重きを置きすぎると、自分対スマホやPCのコミュニケーションが過度となり、その中でのやり取りの方が自分の思いどおりに接近できるため、現実は二の次になってしまっても構わない、むしろ、現実の恋愛どおりに世界が動き出すと、私と異なる相手の反応や感じ方に振り回されることになります。
「相手が好意を示す」という相手の意志に自分が拘束されたとき、「何か違う、何でしょう、この嫌悪は!?」と思わせる原因の一つは、異常発達した間接的関係性で展開する様々な情報ツールと自己との過度のコミュニケーションが当てはまっているかもしれません。
どうして蛙化現象という言葉が着目されたのかを考えますと、ネット社会が浸透した結果、PCやタブレット、スマホの中で理想を肥大できるほど、現実の加工や修正作業が安易にできてしまうことに問題もあるのでしょう。とうとうそれが、人に好意を持つ行為であるところの恋愛さえもが対象になってきたということなのではと感じます。
旧約聖書『創世記』の一節に「われわれは人を我々の像(かたち)のどおり、われわれに似るように作ろう。」と神は言いましたが、現代は「わたしは相手を私の像(イメージ)どおり、わたしに似るように作ろう」としているようです。
仮想空間への依存は現実感覚を脆弱にする原因のひとつです。また、コロナ禍の3年間で人との接触が情報ツールによって間接的に取らざるを得ない社会環境であった反動も蛙化現象を強く感じさせる要因とも思えます。
蛙化現象にはロマンチックな信念の魔術 がかかっています。この現実を見誤ってしまう信念は、何も恋愛に限りません。また、同じ間違えを手放せずに、そこに居続けるあなたの知らない信念が心に根を張っている場合もあります。
よい結果の出ないゴールをめざして人生の時間を浪費して行く前に、「私はどうして同じ間違えをすると知っているのに、この浮かばれないゴールを手放せないのか?」という問い掛けに到達すれば、自分の現実が見えてくるでしょうが、それが思いのほか非常にむずかしくて実践できません。
「貧困でも浪費する、家族に負担をかけてもしかたがない、これが私の信念」という家族機能不全の家族のロマンチックな信念で、自己を美化していたとしたら、非常に大きな問題が隠れているかもしれません。 なぜならば、自分が美しい信念だと思っていたものが、実は他人のものであったりするからです。
他人の願望に一生を頓珍漢にしてしまう人は非常に多く、こうした人たちの人生は、自分のやりたくないことを毎日たくさんやっていたりします。ノートをきれいに整理して書くことが目的となってしまうと、肝心のテスト勉強の中身が全く頭に入らなかった経験はないでしょうか。
「ノートをきれいに書くことが目的になっているからだよ」などと他者から指摘されると、「あなたに言われなくても私はわかっている、放っといて!」と怒りをあらわにするかもしれません。その時、「このテストの科目嫌いなんだ」と素直に言えればよいのですが、それができません。
「好き嫌い」「したい、したくない」が心の中で分化していないから、それを感じることができないのです。怒りは感情ですから、冷静に物事を考えることはできません。思考や内省は機能停止します。いよいよロマンチックな信念を手放そうとはしないでしょう。怒りが生まれた時が自己観察のチャンスです。怒りの遠い昔の原因を「トラウマ」と世間は呼んでいたりします。
あまりにも過酷な体験を経験していると、人は現実を放棄して何かに心酔することがやめられません。いわゆる、トラウマの問題があります。家族機能不全の家庭で日常的に虐待やネグレクトを体験した現実は、記憶を失わせるほど衝撃的です。
こうしたトラウマティックな衝撃を心に抱えた人は、自己の現実感覚が不安定ですから、自分がどうしたいかが常に不明瞭であったり、「これをしたい」とわかっていても、いざそれを実行に移そうとすると憂うつになったり、何かに脅かされたりして行動へと発展しません。また、家族機能不全の環境は愛着の問題を必ず持っています。見捨てられる恐怖や寂しさを跳ね返そうと他人に尽くしたり、完璧主義でみんなを驚かせようとします。
現実を見誤って何かに依存、心酔してしまう問題をトラウマの視点から読み解くことを当相談室では重視ししています。
面談の間は、スマホから飛び込んでくる社会の様々な情報ツールから解放される貴重な時間となるでしょう。
トラウマを治療すると、自分の現実に気がつきます(現実に気づく?当たり前すぎてピンとこないかもしれませんがこれが重要です)。
「あんなに酷い家庭環境はもう二度とごめんだ!」という怒りが、同じ過ちを再演させない原動力となるかも知れません。しかし、虐待の再演のように、同じ過ちを繰り返してしまうのがトラウマの脅威です。
頭でわかっていても、気がつくと血がのぼり発作的、衝動的に虐待や依存行為に走ってしまう状態は、現実感覚の損傷があります。
現実感覚の損傷がもたらす発作や衝動、感覚麻痺、解離などから解放されますと、鮮やかに「私はこうしたい」と「わたしはあの家族ようにはなりたくない」を感じ取ることができるようになります。自尊心をずたずたにされる場所にも行かなくなります。自分を利用するだけの人にも利用されなくなります。完璧でみんなを驚かせようとする行為が自分の人生の浪費だったことに気がつきます。
なぜならば「わたしはこうしたい」が鮮やかにわかりはじめるからです。
●ご興味のある方はこちらからご予約を頂けます。
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