コラム 2022/09/25 (日) 12:52 PM
○○の試験に合格すれば、○○という専門職の資格が得られ、なりたいと思い描いていた○○を職業にして、充実した生活を送れるようになる。
皆さんは○○に何を当てはめますでしょうか。
「適応(ajustment)」とは、「環境からの諸要請に応えると同時に生活体の諸要求が充足される関係を保つこと」(『誠信 心理学辞典』より)と定義されています。
「なりたい○○のため」に、眠くなる統計の勉強をしたり、数式を覚えたりする努力は避けられません。けれども、その努力は部分であり、総合的な結果は思い描いた夢や希望という形となって心を活性化し、その知識や判断が社会で活用され、生きる喜びを感じられるのが「適応(ajustment)」と呼ばれるものなのでしょう。
つまり、「適応(adaptation)」とは、自分がどうしたいかがよくわかっていること、言い換えれば、自己の現実を把握できて具体的であることと定義できます。
小学生の頃は、幼稚園の先生にないたいといい、中学の頃は、陸上のアスリートになりたいと部活に励み、高校では音楽に関心を持ち、大学で軽音楽部のサークルで4年間、同時進行でリクルート姿で様々な分野の企業訪問をしながら、卒業したあと、いつまでも親まかせで自立しない大人ではいられない、、、、。
こんな不安感と自立心とプライドから自分自身を職場環境へ投げ込んでみたものの、仕事がつまらない、やる気が起きない、対人関係が無理等々の問題を耐え忍びながらも、自分にふさわしいもっとよい環境があるはずだと、過去のチャレンジを振り返り、実際の自分はどんな状況で何ができるのか、何がしたくないのかを感じたりできれば、自ずと道が開けてきますが、過剰適応の人たちはそれを見失ってしまいます。
Aもできれば、BもCもDもできる、時には人を助け、またある時はユーモアで人を楽しませ、みんなの苦手な人にも抵抗なく、徹夜をしても疲れた様子も見せず、語学に堪能で美形でスタイルもよく、、、 。
このように書き出してみれば、周りがうらやましいと思えるほどの才能あふれる人なのに、なぜアルバイトで下っ端の仕事をしているのか、本来であれば、上に立って指示を出したり、幹部や経営者であるべき人なのに、低賃金で周りのフォローや世話に追われている。そして誰もその人のポジションに疑問を持たない。
それどころか、その人に仕事をまかせたり、都合よく利用していた人の方が、出世して会社の幹部になっていたりします。ここでは「才能の無駄使われ」という逆転現象が起きています。過剰適応の人たちは便利屋として利用され、見合った報酬もなく忘れ去られてゆく状況を自ら作ってしまいます。
・困っていたら助けるのが人の道
・優しさは必ず報われる
・人徳があればいつか報われる日がくる
・たとえひどい親でも大切にしなければならない
・自分は仕事を抱えていないからといって退勤したらみんなに失礼だ
・どんな時も不平等はいけない
・お年寄りに席を譲った。「ありがとう」はなかった。あの高齢者は相当疲れていたんだ
・父は酒を飲むと暴れる。母が殴られそうなので止めに入った過去。 どんなことも時間が経つといい思い出になる
「楽天主義とは、どんな悲惨な目に遭おうとも、この世の全ては善であると、気の触れたように言い張ることなのだ!」
(ヴォルテール著:『カンディード』から)
行き過ぎた楽天家の病こそ、過剰適応かも知れません。自分の中にある才能や能力を人々への奉仕や社会善、家族の平穏のために浪費することに対して、損したという思いやなんで自分ばかりがいつもこんな目にあうのか?という感情的な疑問(怒り)を封印してでも、この世は全て善であると言わされ続けていることに気がつけません。
母の具合が悪くなる。父の怒りがはじまる。姉が何日も家に帰ってこない。兄が引きこもる。妹はスポーツの大会で優勝する。祖父は認知症が進行し、、、家族のこうした問題を自分が緩衝材となって一手に引き受け、自分が解決しなければならないと考えてしまう傾向が過剰適応の人たちにはよく見られるかも知れません。
万能であれば皆が評価し、皆が神のような救世主と思ってくれるという自己愛の幻想によって、いつか私は報われると思い込まされています。自己愛とは本来、自分の今したいこと、いわゆる願望や欲求がわかっていて初めて健康に機能するものですが、過剰適応の人たちは、自分の願望や欲求が抑圧されています。
過剰適応の人たちはい自己評価が苦手で、この点でも謙虚です。万能であることによって他者から評価される方法で自己愛を満たします。けれども、いざ人から賞賛されたりすると羞恥心に襲われて「私なんか大したことありません。そんなことないですよ」などと謙虚な態度を見せます。
「そうでしょ?私ってすごいでしょ!」といってもお釣りが返って来るくらいなのに。あるいは、能力に見合った報酬や労いを周りからもっと受けてもよい筈なのに、控え目の罠にかかり続けています。
過剰適応の人たちは、「NO」を言うと親からの虐待を受けた記憶がトラウマとなり、その恐怖体験を回避しようと「YES」ばかりの人間関係で、適応を過剰にさせている場合があります。
あるいは「NO」を言っても、親が空気のように無関心で放置しているネグレクトも、見捨てられ不安から人の期待に応えようとする行動を中心した生き方へ引き寄せられてゆきます。
「こうしたらあの人は怒らない」、「ああしたらあの人は喜ぶ」という信念が無意識に行動を支配しています。言い換えますと、「私」という主語の代わりに「あなた」という主語がその行動を支配しています。
常に自分の願望を投影して他者のための行動をとります。そのため、他者の実際の姿や他者の感情を誤って解釈していることがあります。
人が長い沈黙をすると何か自分が否定されているように感じたり、その人は怒ってないのに私を怒っているように思えるのも典型でしょう。期待に応えないとトラウマが恐怖の感情や不安を呼び起こします。
心の中の「私」と行動をする「私」が一致すると、自ずと自己主張ができるようになり、自分の能力の高さや自分の凄さに気がつかれ、「今の今まで一体私は何をしていたんだろうか?」と思えた時、一気に世界がモノクロから4Kテレビ以上の鮮やかな総天然色に変貌し成長してゆきます。
その時、目の前の他者の実際の姿が実像どおりに見えてきます。スゴイ、スゴイと思っていた人が、自分よりも能力が低くて、大した人ではなかったと気がつきはじめます。こう思えた時、心から「私は自己主張をしてもいいし、時にはそれを怒りによって相手に訴えてもいいんだ」という自分の声を聞くことができるようになります。
あれが見つかった!
何が?永遠が。
それは太陽に混じった海。
(A.ランボー著 中地義和編『永遠』)
こんな風に上の偉大な詩を書き換えて自分自身との出会いを表現できるでしょうか。
あれが見つかった
何が?ほんとうのわたしが。
わたしに溶け込む私自身を
トラウマ体験から解放されると、AもBもCもDもできる必要はないという考え方に変化してゆきます。また、誰からも好かれる必要はないし、時には孤独でいることの大切さ、自分自身を噛みしめて感じることの大切さを覚えます。
そして自分が何をしたいかがわかってゆきます。今まで必死になって他者に奉仕してこの恐怖と不安ばかりの人間社会を生き抜かなければという信念が勘違いであり、非常にばかばかしく思えてきます。
当相談室ではトラウマによって自己を封印され、過剰適応で不調を訴える皆様が本来の自分とほんとうに感じている事に出逢えるように、 FAP療法を主軸にした治療をしております。
FAP心理療法は、家族トラウマが原因の緊張感と不安や恐怖を、共感性の脳神経細胞のミラーニューロンを心理カウンセラーが活性化することによって、クライエントの方の緊張や不安、恐怖のレベルを短時間で緩和させる心理療法です。恐怖や不安、緊張した体のこわばりを、心理カウンセラーが催眠によって共鳴することで、不快な理想化や信念や認知よりも大事なことは、「わたしが~したい」を呼び覚まします治療をモットーに皆様に寄り添っております。
●ご興味のある方はこちらからご予約を頂けます。
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