コラム 2024/03/13 (水) 4:00 PM
自分がどうしたいかがわからないから、不安になります。憂うつになります。何かに依存したり、リアルさを求めて嗜癖や没頭に溺れ、その時だけは、現実感と自分自身の存在が証明されて、生きている感覚が蘇りますが短時間だけの多幸感なために再び刺激を求めようとします。なぜ、刺激を求める前に「自分自身をはてな?」と考えることができないのでしょうか。
それは「自分がどうしたいかがわからない」ために起きているかもしれません。 自分自身を感じて考えることができない不安や恐怖は、安心感を得ようと道徳的行為を選んで真面目で親切、他人にはやさしい、といった好人物をアイデンティティにするかもしれません。あるいは、道化役でみんなを楽しませる。不思議キャラで可愛がられるなど。これらに共通するのは、他人の評価が持続しないと窒息して自分がどうしたいかがわからなくなってしまうということです。
「自分がどうしたいかがわからない」と、その日常行為は人に考えてもらう受け身行動が多くなるかも知れません。
「あなたがこうしろと言ったから私はそうしている。でも言うとおりにやったらひどい目にあった。」
「あなたのせいで、いっつもひどい目にあっている」
「私の方があの人よりずっと頑張っているのに誰も評価しない」
決して口にはしないこんなセリフを心の中で何回もリピートさせてはいないでしょうか。 本当に言いたいことが相手に言えません。
それにも関わらず、そんな人たちの周辺に居続けて、自分が過剰適応の状態であることに気づけません。心に怒りが充満します。生きづらくなるかも知れません。
同じ失敗をしないためには自分で自分を感じて考えなければいけないんだとはわかっているのですが、それが簡単にできず、今までの生きづらいキャラや役割の崩壊に恐怖さえ感じます。
不快な相手に過剰適応し続ける限り、自分はどうしたいかがわかりません。心の中では相手が悪いと睨んでいる。しかし、外見は善良でにこやかに自分の怒りに怯え、葛藤しています。
あなたの本当の気持ちを封じ込めている、怒りへの怯えを取り除くトラウマ療法として、FAP療法は多くのクライアントの皆様に活用されてきました。
「わたしはあなたにこうしてもらいたい」や「私本当はこれがしたい」の声にマイクを当てて拡声するのが、わたしたち心理カウンセラーの役目となっています。自分をはてと考える作業が機能しはじめ、自分への気づきに驚き、心の成長と変化を促すお手伝いが出来ればと思っております。
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自分感覚とは自分が楽に生きる感覚のことで「自分がどうしたいかがわかっている感覚」のことです。この感覚が機能不全となる原因に、養育環境が家庭の貧困、父と母の不和、親の精神疾患、兄弟姉妹間の不平等など、いわゆる機能不全家族システムでアダルトチルドレンにならざるを得なかった問題が必ず潜んでいるかも知れません。
”私”の役割は「家族を仲良くさせ、みんなに笑顔で明るく生活してもらうこと」と思い込まされていたりします。「家族に問題があってはいけない」という思い込ませが、「わたしは本当はこれこれがしたいんだ!」という願望を掻き消していると、どうしたいかがわかりません。
重症化してしまうと、自分がどうしたいのかがわからないのに、わかっていると思い込んでいたりしますから、心の中の他者への怒りが激化してもそこに過剰適応して楽な生き方を見失ってしまうでしょう。あの人がいるから生きづらい、この人のせいで私はこんなひどい目にあっていると声には出せない怒りを乱反射させての過剰適応では、長期間自分感覚を奪われても当然です。この荒行から解放された時のあなたは、日常生活で今の何倍もの力を発揮できるはずなのです。
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怒りを感じると「口にしてはいけない」と我慢する。怒りは今日、否定的に捉えられているように思えます。例えば、親が公共の場で子供に怒りをぶつけると「あ!虐待!」と脳裏に浮かぶ。あるいは、上司が部下の繰り返すミスにお怒り気味の発言をすると「あ!ハラスメントかも」と瞬時に捉えてしまう。どうやら社会はハラスメントにビクビクする「ハラスメントトラウマ」を抱え込んでしまったかのようです。
ところで「怒り」には、自分を表現、主張し、純粋でありたい願いと自分の自由を奪い返すような、闘争的かつダイナミックで健康な側面がかつてはありました。太宰治著『走れメロス』の中のメロスとセリヌンティウスの殴り合いのシーンはお互いに友情への疑念を持ったことへの各々への怒りが拳をもって美しく表現されています。
さて、現代社会はどうでしょうか。「怒り」を個人を侮辱し脅かし、相手を傷つける感情動作に変貌させてしまったような気がします。怒りは窒息し、人々の心の中で怒りの缶詰が缶切りを失った状態です。「わたし ほんとうは こうしたいんだぁぁぁぁ~!」という叫びが閉じ込められているような、、、、。
今日、怒りはあってはいけないから、どうにか溜飲を下げようとします。そして、スマートで洗練された人間を演じる。トラブルはさりげなく解決する。波風立てずに、平和だ、穏やかだと安心しているフリをしているような気もする。怒りを窒息させようと、潔癖なまでに完璧主義に徹した無理をして、社会不安から生きづらさを感じてしまうのも当然かも知れません。
どんな言葉もハラスメントや誹謗中傷に変換されてしまう社会では、「熱くなったら、カッコわるいよ」という現代人の心の美しさを表すスマート主義が圧倒的な支持を得ているように思えます。怒りを抑え込みスマートでないと、その人間は、昭和生まれの旧世代という劣等感さえ覚える時があります。容易には怒りを出しにくい社会となりましたが、昭和生まれの旧世代は世代間ギャップと価値観の急激な変化に、怒り窒息のストレスを溜め込むのもやむを得ません。
しかし、 メロスとセリヌンティウスの怒りは先ほど挙げましたが、自分を高めたいがために怒りと悔しさを覚える自己向上心は健康な怒りです。すべての怒りを悪者にしてはいけません。
「わたしはほんとうはこうしたい、こうなりたいんだ」という楽に生きるための声を、心の中にしまい込んで自分を騙し続けてしまう過剰適応は、あなたの向上心を鬱屈する怒りでズタズタにしてしまうから、そんな不快な場所から逃げる知恵をすぐにでも身に着けてください。
こんなわたしにも逃げられたんだ!とビックリしたとき、いよいよ心が弾んでくるでしょう。 自分指向になれずに怒りを開放できない問題を抱えている性格傾向として、センシティブなHSP傾向の人、複雑性PTSDでトラウマに脅かされる人、機能不全家族で育ったアダルトチルドレンの人たちがあげられます。
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