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コラム:行動できない人たち

コラム   2023/12/23 (土)  12:24 PM

行動できない人たち:本当にしたいことが後回しになる

 

本当にしてみたいこと」をここでは「行動」と呼びましょう。 

 

その行動ができない時、必ず心は葛藤状態にありますから、ああでもない、こうでもないと用心深く自分の心に答えを求めようと、動きを停止して沈思黙考しているように思えます。しかし、思考は意外にもパニックを起こして的を外しているか、怒りの感情と共にヤケを起こしているか、ちっとも答えが出せずに途方に暮れてしまうかの、いずれかだったりします。これらのどの状態も心の状態を客観的には見せませんから変化は生まれないかも知れません。

 

朝から考えはじめて結局その日はコンビニ行っただけでとうとう夕方になってしまった。 

 

いやなことを先に終わらせて、解放されてから好きなことをしようとしたら、いやなことを片づけるのに憔悴してしまい、好きなことができず貴重な休日が丸つぶれとなり、一日が終わっていた。 

 

午前中に終わらせて午後はゆっくりするぞという思いは実現せず、午後になっても、夕方になっても午前の作業が終わらずに続いてしまうので、そのほかの事ができない一日となる。 

 

ひとつも満足にできない。やることが溢れているから、何からしてよいのか自分でもわからず放心してしまう。 

 

「自分はどうしてダメなんだろう」と夜は寝ながら反省会をしはじめると寝つきが悪く、様々な思いやイメージ、たくさんの人たちが行き交う交差点のように頭の中が騒がしい。 

 

翌日はすぐれない気分で出勤や通学しながら、「これでいいわけないし、、、、」と相変わらず日常生活への欲求不満や不全感を覚えます。 

 

「ああでもない、こうでもない」という、自分との対話に莫大な時間を掛けますが、何ら変化の起きない自分が、相変わらず今ここにいることだけは知っているものの、日常生活のパフォーマンスが落ちてゆく部分にばかり、目がいってしまいます。 

 

このような状態に陥ったことはないでしょうか。 

 

「変わりたい、何かしたい、しなければ、、、、」が考え過ぎることで、身動きが取れないことに気がついている人は、自分が本当にしてみたい行動に、待ったをかける状況がはりめぐらされているかもしれません。 

 

「それって拘束されているってことなの!?」と気がつけば早いのですが、まさか、そんな状況の中で自分が生活しているとは思ってもみません。この気がつかない束縛拘束状況の中で、気がつくと支配者の命令に従い、したくない行動を優先して、自分の本来したいことを後回しにしてしまいます。 

行動できない人たち:日常生活という装置 

悪い習慣を良い習慣と思わせながら反復させるのが日常生活の困った一面でしょう。反復やルーティンは考えたり、判断したりする力を最小限にします。7時だ起床の時間、9時だ出勤登校時間、お昼だランチタイムなどの習慣に、いちいち「どうして7時に起床なの?どうして9時に、、、」と疑問を持たれることは少ないでしょう。

 

一見すると、この日常の現状維持の力は、自分の生活規則に不可解な安定を感じさせつつ、実は不快な感情を麻痺させている場合が多いのではないではないでしょうか。 

 

例えば、「きのう、またクラスでいじめを目撃した。いじめは見たくない。不快だ。しかし、自分がターゲットでなくてよかったと思っている。そんな自分に吐き気がしている。」 

 

この吐き気がないフリを隠蔽する装置が日常生活なのかもしれません。どうか、恐怖が自分には降りかかりませんように。世界の中に救われない状況を垣間見て、自己防衛をする。結局、それは恐怖というトラウマによるコントロールで心と身体を硬直させているため、自分自身が自分を上手に活用することが困難になってゆきます。 

 

感情が麻痺したままそんな日常生活を続けていると、心の反応は身体への不快感や痛みとなって、あるいは不眠やイライラとなって表れるかもしれません。 

 

 

行動できない人の心理は、日常のすさまじい恐怖の濁流に自分は飲み込まれて、この濁流に身も心も任せっきりでいないと生きてゆけないのでは?という受け身(恐怖への不安)の心理が隠れているようですが、受け身(恐怖への不安)という、支配者にとってはこれまた都合のいい心理によって操作されていることに気づくだけで、その生活は見違えるように変化します。 

 

「学業が済んだら社会人になり、恋愛して結婚して家庭を作り、子育てをして、健康に気をつけながら、平均かそれ以上の生活で安定しなければいけない」という法則は一体だれが発信して、いつから日常生活の土台になっていったのでしょうか。

 

平均レベルや一般水準、中央値、真ん中くらいという言葉に、何か心が安定したような錯覚を覚えますが、実際は多くの人が、現状維持の真ん中主義者である自分に強い反抗心を持って生活しているように思われます。

 

平均者は如才なくそこそこになんでもこなすが、何故か影が薄いという印象です。顔が浮かんでこない。なぜか集団としてイメージされ、長いものに巻かれたり、多いものに紛れたりできる奇妙な安心感があります。「私だけじゃない」という安心感がある代わりに、「本来の私」の部分が背景に引っ込みますから、ひとりになるとなにか釈然としないものが日常を支配します。 

 

「自分を表現できない世界、私が活躍できない世界なんて、生きてて面白くないよ!」 

 

こんな当たり前のことに気がつきながらも、何故か日常の装置は私たちを操作し、私たちはそれに動かされてしまいます。 

 

行動できない人たち:行動をさせない3つの装置 

 

●完璧主義装置 

 

完璧な行動が手放せず、細部に時間を掛け過ぎて、本題を見失いこんなのではダメだという声が聞こえて、また同じ過ちを繰り返し、作業が一向に進まない。こうした完璧主義には、恐怖が必ず根底にありますからそのトラウマを退治する治療が欠かせません。

 

あるいは、完璧主義は、他者に同等の厳しさや力を要求します。挑戦的かつ支配的で、ダメ出しをしては、それはあなたのためにやっているんだという傾向があります。フタを開けてみると、それは虐待を連鎖させるトラウマの再演だったりします。

 

育てて成長させるどころか、叱って否定して「あなたのためだ」と道徳心を振りかざしている人たちによく当てはまるのが、親や先生、先輩、上司、友人だったりしますから、装置は壊れにくい頑丈なものに思えてしまいます。 

 

 

●嫉妬装置 

 

親や友人の自慢話があくびが出るほどつまらなくて、「でも、○○さんはそれを一回でやってのけたって聞いたことがある」とマウンティングしたくなった経験はないでしょうか。 

 

「でも、○○さんはそれを一回でやってのけたって聞いたことがある」には、○○さんはあなたより上で、あなたは一回じゃできない人だからやめた方がいいよ、自慢はそのくらいにしてほしいという声が隠れています。

 

いわゆる「嫉妬」の感情は誰しもが、気がつかないうちに、人前でうっかりさらけ出してしまったりします。これに敏感に反応すると装置の思う壺で、あなたはできない、我慢しなさい、能力がないという暗示を入れられてしまうでしょう。 

 

 

●脳は相手のまねをする装置 

 

本来やりたいことが後回しで嫌なことばかりに目がいってしまう。言い換えますと、私が嫌なことばかりに目がいっていると、ある人たちが安定して日常装置が保たれます。嫌なことに着目してしまう日常が、いつの間にかあなたの習慣になっているかもしれません。

 

自分に良いものへは着目せず、自分の可能性を奪われる負の世界に四面楚歌されていると、脳はその負の状況やマイナス思考、皮肉や愚痴や悪意のはびこる人や状態を模倣しようとします。家族機能不全で虐待やDVがやめられないのも、日常装置の罠です。 

 

「美大を受験しようと思って、、、、」 

「美大!?だめだめ、父さんもお母さんも絵なんか描けないのに、出来っこないわよ」 

 

こんな親子の風景は本当に日常茶飯事に思えます。やりたくないことを我慢して平均でいなさいと、嫉妬の感情は、たとえわが子であっても自分より人生を楽しもうとする人間にくやしさや許せない感情を持っていたりします。 

 

「美大か、、、やってみたいんだな?」とどうして言ってくれないんでしょうか。 

 

 

家庭にも、学校にも、職場にも、相談できる人や場所やサービスはあるかと思いますが、これらは日常装置が平均的になるように働くため、相談らしいことはしてくれても、劇的変化やダイナミックな行動を許容しないでしょう。 

 

皆さんが、ほんとうにしてみたい行動って、ほら、あなたのすぐそこにありますね。きっと気がついているんだと思います。あなたにとって有害な日常装置から解放される場所を、当相談室が提供できればと皆様のご来室をお待ちしております。 

 

●ご興味のある方はこちらからご予約を頂けます。

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