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コラム:人間関係に疲れる人たち

コラム   2023/11/15 (水)  3:16 PM

人間関係に疲れる人たち:本当の私への恐怖 

人といると疲れる人のは、本当の私を表現することに恐怖を感じている場合があるかも知れません。 本当の自分に遠慮して、人といると疲れてしまう。それがみんなへの罪悪感になる。暗くなってはみんなに失礼だ。自己肯定感は現代に必須だし、陽気に振る舞わなければ失格だ。けれども、ほんとうは本音を語れるほど人を信頼していない・・・。 

 
人を信頼できない人は、人の恐ろしさをよく知っているからかも知れません。人間は本当に恐怖です。映像の中の愛くるしい「くまさん」も、民家を歩き回れば旋律と恐怖に早変わりして「野生の熊」と呼び捨てにされて警戒されてしまいます。 

 

自然災害に遭遇する恐怖 

野生動物に襲われる恐怖 

 

思わぬところで事故にあったり、事件に巻き込まれたりする恐怖 
こうしたあからさまな恐怖とは正反対に、隠蔽しながら恐怖をちらつかせて、不安を煽られ笑顔を強要される恐怖を、時に人間関係は孕んでいることがあります。 

 


特に暴力、体罰、虐待、いじめや正義感による圧力などで集団や権力を敵に回したときの恐ろしさを経験したり、その現場を見たりすると、人間関係で自分の本心を表現したらひどい目に会うと学習してしまうかも知れません。 

 

そしてその相手が意外にも仲の良い人、親しい人、やさしい人、親や教師、友人、夫や妻だったらどうでしょうか。 自分の感情をだましながら、無理にでも辻褄を合わせないと、再び痛い目にあうのではという不安はますます拭えないかも知れません。 

人間関係に疲れる人たち:楽園追放   


あなたがかつて自分の感情に正直で、すぐに人間と仲良くなれる子どもだった時代の記憶はないでしょうか。感情が正直さの尺度だった頃です。 

 

僅かでも「これがしたい!」「あれがしたい!」という未来を展望する楽しい想像力があったのではないでしょうか。 その楽が壊されて、今は楽園を追放されている。 
楽園の頃のように生きようとする力は萎縮しています。 

 

「あの、、、この前まで住んでいいた楽園のことなんですけど、、、」 

「ええ!?何言ってるの今さら。みんなを裏切る気?」 

 
楽園について語ろうものなら途端に緊張が走り、強張り、動悸めまいでパニック発作を味わう羽目に仕組まれてます。自己肯定感、自己肯定感、自己肯定感という呪文が大勢で襲ってきます。

 

社会は「みんなのための自己肯定感」を強要して、「私のための自己肯定感」を見失わせるかも知れません。同様に、「私のため」という言葉も濫用され過ぎて、この言葉を露骨に使うと逆に個性を吸い取られてゆく矛盾を感じます。 


 
例えば、ダークな自己否定感にどっぷりと浸かって、それに溺れない程度で私を観察してみる。すると、本来の自己肯定感が見えてきます。 

 

「私のこの否定的な感情は、わたしが感じていることではない。この感情はだれのもの?」という発見が、あなたを変化させ、心の成長を促すでしょう。 しかし、ちょっとでもみんなの期待を裏切ると、、、、という恐怖が不安になって表れます。

 

 
FAP療法はこの恐怖を素通りさせます。気がつくと人間関係が嫌いとか好きとかいう問題すら、どうでもよいことに思えてしまう効果を発揮するかもしれません。人間関係から解放され、自由への門を、今、自分はくぐって通過したという強みは、楽園の感覚を取り戻してくれるかもしれません。 

人間関係に疲れる人たち:関係について 

友達という重圧、家族という負担、仕事のプレッシャー、単なる知人というだけの気楽さ。 

 

こんなことを感じない日は、関係の雑音が頭から消えて独りになれたときだけでしょう。その独りになるということが上手く出来ずに、「あの人には申し訳なかった」と反省したり、「また感情的になって失敗をやらかしてしまった」、「相手の期待に応えられなかった」などと関係から発した感情に心を揺さぶられて、眠りに失敗したりと、ほんとうに関係は厄介です。 

 

社会とは、人間関係という避けられない拘束の中で重圧、負担、気楽さを混ぜ合わせた場所のようです。人間はいい意味でも悪い意味でも必ず関係に拘束されます。人との関係を長期間、一切絶ってしまうと生存や社会生活への不安が襲います。 

 

では、その不安をさほど感じないためには、何が大切でしょうか。 

人間関係に疲れる人たち:社会のための自己肯定感 

 

関係の性質の一つ「拘束」は、人間に「自由でありたい」という力を自発的に芽生えさせます。無理やり腕をつかまれると振り払いたくなります。心も同じでしょう。そんな拘束の中でも自己表現がしたいという意志は、生きる喜びに変わります。

 

それを求めて人間はクリエイティブになってゆくのでしょう。それは関係という人間にとって回避できない環境があってこそ創造されるものではないでしょうか。 

 

皆さんは地球という星の上で、自分がクリエイティブになれるチャンスをこのように与えられているのです。これは言い換えれば、「生きやすさ」の問題の事になります。 

 

「生きやすさ」とは、自己の能力、創造を発揮する。否定も肯定も二の次で、とにかく「楽しい」という言葉だけでは内包できない矛盾を孕んだ心の状態です。自己否定感を楽しんでみんなの自己肯定感を疑う。そんな状態でしょうか。 

 

自己肯定感/否定感という言葉は非常に流行っていますが、あまり流行って濫用されているとインチキのように思えてしまうことがあります。否定はx、肯定は〇という記号化が 社会にとってのよい/わるいにすり替わるからでしょうか。 

 

流行るという「くくり」からの脱出を感じているからです。流行るに埋没して無思考のままこの言葉を使用したくない。誰のための肯定感なのか、否定感なのか? 

 

当然、自己が社会の中でよく発揮されるためのものなのに、どうにもそうではなくて、家族や会社、知人や仲間のための自己肯定感にすり替わって使用されているようなことがあります。 

人間関係に疲れる人たち:私賃も払わずに住み込んでいる声 

 

一般に、完璧主義や人の期待に応えてしまうことが、人間関係を苦しくさせる原因と言われています。 

 

しかし、当人は自分をそれほど完璧主義者だと思っていなかったり、人の期待に応えているのではなくて、自分が好きだからやっているだけだと解釈していたりします。その解釈も私の価値観、私独自の性格、個性、信条などと認識している場合があります。 

 

ここには「好きだからそれをやっている、けれども生きづらい」という、どうにも矛盾したトリックがあります。この部分を指摘すると、急に話をそらしたり、感情的になって「それ」を手放そうとしない傾向があります。 

 

言い換えれば、自分の中に他人が入り込んで、家賃というか私賃(わたしちん)も払わずに、「○○ちゃん、それを取って、私のかわりにこれをやって、どうしてもっと早くできないの?」などと操作されている心の状況でしょうか。

 

家でも外でもそれを完璧にこなさないと、評価点が下がる、だから完璧にこなして、期待に応えるというカラクリが実権を握っています。結果を出して評価点が高くても、操られた当人は喜ぶというよりは「やれやれ、これで少しは安心できるぞ」という安心感の方が絶大で、「自分を心から喜ぶ」という感覚がわかりません。 

 

学歴も高く、会社でも評価され、金銭的にもさほど困っていない。けれども、生きづらさは払しょくできず、何かが空振りしている。今日も関係という、人間を結ぶ糸に絡まりながら、きつく結びすぎてしまった、こっちは緩すぎた、結び目をどうにもほどけない、切れてしまった結びを修繕したい、結ぶのが嫌になったと感じてないでしょうか。 

 

人間関係に疲れる人たち:人間関係を軽やかに生きる 

 

FAP療法はこの糸のことを考えないでいられる時間を少しずつ長くしてくれると思います。「今ここ」という私の感覚が研ぎ澄まされてきます。「どうしてこんな遠回りをしていたんだろう」、「なぜあんなに人に尽くしていたんだろう」と自分を不思議がりはじめたら、自由でいられることの喜びの感覚が楽園にいた時のように感じられる筈です。

 

社会の中で言いたいことを言ったり、自分の感じたままを表現すると、相手が怒る、みんなから仲間外れにされる、酷い評価点を付けられるなど、そんな妄想の脅威にさらされて、人間関係にくたくたになっていらっしゃったらご来室をお待ちしております。 

 

●ご興味のある方はこちらからご予約を頂けます。

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