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コラム:孤独感に陥る人たち

コラム   2023/09/29 (金)  11:50 AM

孤独感に陥る人たち:「孤独さん」と「仲良しさん」 

 

「孤独」は悪い印象がついてまわる言葉です。 

 

・ひきこもり 

・いけないことをしている 

・仲間外れ 

・危険人物 

・反社会的 

・へそ曲がり 

・心を開かない 

・身寄りがない 

・孤独死 

・人間不信など 

 

「あなたのその孤独いいね!」などとは日常会話の中で聞いたことがありません。 

 

直接は言われたこともないのに 「そんなことしていると、今に孤独がやってきて貧乏で嫌われ者になっちゃうのよ」と母から当回しに言われてきたような気がします。 「そんなのではダメだ!生きてゆけないぞ!」と父から怒りで諭されたような気もします。 

 

しかし、そんな印象の悪い「孤独」は私の中にあります。決して毒を飲んだわけではありませんが、私が私自身を「これは私だ」と意識し始めたその開闢以来、孤独はわたしの中にずっと住んでいます。私の中に住んでいる父とも母とも兄弟姉妹とも違う、家族同然かそれ以上の人、それが「孤独さん」です。 

 

それの何が悪いのでしょうか。 寧ろ悪いのは、自分にも相手にも信用されなくなり、不自然に嘘ばかりついている「仲良し」の方です。 

 

そのような嘘が多くなると、孤独が汚れます。イジメの現場を見て見ぬふりをするような、そんな汚れです。その汚れを孤独全体のせいにするから、孤独さんは悪者役をせざるを得ないのでしょう。 

 

自分の中に汚れた孤独を感じる時、そのすぐそばで本来の私が不機嫌にこっちを睨んで、こんなセリフを吐いています。 

 

「どうして自分で自分の悪口ばかり言うの!?こっちに向かい合って私を私の中に閉じ込めないでほしい」と。 

 

孤独のエネルギーは外に出たがります。光のようなまっすぐな表現です。しかし、怖くて閉じ込めます。やり場のないエネルギーは、自分にも他者にも怒りや嫉妬、不安や憂うつなどで表現されますから、自己像は歪み、汚れます。 

 

生きづらさとは孤独の汚れのことなのかもしれません。その汚れに埋もれてしまうと、自分自身のほんとうの感覚がどこに行ったのかわからなくなります。 

孤独感に陥る人たち:健康な孤独 

「独り」と「1人」はどちらも「ひとり」と読みます。その「ひとり」を当て字で「火取」、「火鳥」、「人理」、「Hitori」で並べてみます。 

 

「火取」には人類に火の使用を教えて、文明を発展させてくれたプロメテウスの神話を思い出します。 「火鳥(フェニックス)」には死んでも蘇るたくましさを感じます。 

 

「人理」には、気分や感情に引っ張られない人としての安定感を感じます。 

 

「hitori 」をアメリカン読みで発音すれば何処か英語の「History」に聴こえてきます。「Hitori」には人それぞれの生きざま、歴史、人生を感じます。 

 

ほとんどこじつけですが、これらの言葉遊びの印象を合計すれば「独り」には「強さ」という肯定的なイメージがちゃんとあります。 だから強いはずの「独り」が、寂しさや悲しさを漂わせていますと、逆に映えて「弱さ」を強烈に感じてしまうでしょう。

 

そんなときにこぼすセリフが「(強くない)私はどうしてこんなにダメ人間なんだろう」でしょうか。あるいは、このセリフを吐いても何も変わらないと諦めて、自分の感情の唇にガムテープでバッテンをしているかもしれません。 

 

孤独に本来備わっている「強さ」が感じられると未来はわくわくします。これのために次はああしよう、こうしようとクリエイティブを楽しみながらその強さは未来をカラフルにしてくれます。

 

自ずと危険や嫌悪、不安や恐怖、怒り、憂うつ、病気から免れる方法を身につけます。安全な立ち位置で、自分が望むことを実践しながら失敗にも負けずに自分をコントロールして、知性を働かせて大胆な行動で生きることを楽しむことができるようになってゆきます。

 

楽しみのために自分が健康であってほしいという自己愛も生まれ、お酒やギャンブルなどの嗜癖に溺れる非生産性の虚しさにも気がつきはじめます。 

 

そんな孤独の中にある強さを、どうして感じられず自己嫌悪や自己否定、自分は部外者という認知の歪みが生まれてしまうのでしょうか。 

孤独感に陥っている人たち:トラウマの問題 

自分にしかない自分の中の孤独は、今もあなたの中にいますね。その孤独がどうして間違っているような気がしてくるのでしょうか。自分らしさや個性などの表現力を支えているのは孤独です。

 

孤独から湧き出た表現を頭の中だけのものから現実の社会の中に表出したときに、本来の私が鮮やかに見えてきます。その現実の社会に非常に憶病風を吹かせて締め切った雨戸がガタガタと震えている原因には、心的外傷体験や見捨てられ不安などの問題が見つかるかもしれません。 

 

周りをさほど気にせずに、淡々と自分の進むべき道を自分の素直な感覚と表現で歩めたら、どんなに楽でしょうか。それはあなたの心の声、つまり、孤独の中にあります。

 

その孤独がトラウマ体験によって脅えや遠慮が支配していると、自分自身の快不快の判断が出来なくなってゆきます。残念なことに、人間は人権を意識しないと圧倒的にマジョリティ(多数派)が権力を握ってゆきます。

 

社会のいたるところに自分の感覚や快不快の判断を狂わせるものがあまたと溢れています。大きな権力対自分独りでは、到底太刀打ちできないという単純化は、長いものに巻かれて自己卑下に陥ってしまいます。一般にはこの状況を「あなたももう大人でしょ?」などと表現している場面に出くわすことがあります。一般常識、世間体という脅威が、実は単にトラウマの問題を抱えていただけだったという場合もあるかも知れません。

 

 

孤独感に陥る人たち:人間はみんな孤独を飼っている 

 

絶対に私と一致するものなど(たとえ親であっても)この世に存在しません。 

 

人間は生まれた時から固有の存在で、養育者から解き放たれて「独り」で自立して生きてゆけるように成長します。世界に生れ落ちたときから、もうそこに自分以外の自分はいません。

 

生まれるとは孤独のことなのでしょう。だからその時点で、自分の中から孤独を取り除くことは非常に困難です。それなのに、時々、親は孤独なんてこの世に存在しないと子どもに思わせたりします。

 

それは過干渉などと呼ばれています。あるいは、私がいないとお前は見捨てられてしまうという孤独の恐怖を強調して子どもに叩き込んだりします。これがネグレクトなどの虐待による見捨てられ不安などと呼ばれています。 

 

自由が奪われるとは、自分が何だかわからなくなることです。自己の欲求をどこに吐き出してよいのかわからなくなります。そこで待ってましたとばかりに社会はわれわれのその欲求で一儲けしようと飛びつきます。自分の願望がそこにあったように思わせる商品は世の中に五万と溢れています。 

 

経済を支えるこうした商品に振り回され過ぎずにいれば、自分の快不快の声も聴きやすくはんるような気もします。本来、孤独な時ほど、人は存在しているのでしょう。

 

孤独とは今ここにある私のことであり、存在のことです。本人が「孤独だ」と感じない限り、自分の中の孤独はクローズアップされません。孤独は私たちの意識の中に住んでいます。そして、私たちが想像力で描く頭の中の世界にどうやら孤独は潜んでいます。

 

その頭の中の孤独な声や絵が妨害されると、自分自身の孤独な本当の声やイメージは雑音と情報量で掻き消されてゆくでしょう。そして、大きなものに巻かれて、大事なものを見失います。自分の中の孤独は放置されますから、孤独は怒りや生きづらさでもってあなたに仕返しをしているかもしれません。 

孤独に陥っている人たち:孤独の声を正確に聴く 

 

自分は○○をやってみたい。それがあれば心も身体も健康で元気になれる。

 

自分の心の声(孤独)が正確に理解できますと、やる気が出て生きやすさを感じることができます。しかし、その心の声を聞こうとすると不機嫌で寂しそうな親たちの顔や状況が浮かんで来る、ご主人の寂しそうな顔、子どもたちが自分から離れてゆく不安、みんなから忘れられてゆく自分などのイメージが、青信号に変わった渋谷のスクランブル交差点のように雑然と浮かんできてしまうと、もう何もかもが義務ばかりに感じられて、人相を悪くしないと収まりません。あるいは、無表情でないと、社会適応ができない状態になるかもしれません。 

 

自分の声など聴く余地もない!その怒りは通行人やバス、電車の乗客への些細な所作へと向かってゆき、町中で通り過ぎる人がうっとうしく、顔は平静、心は怒りが沸騰する、そんな精神状態は、自分自身の快不快判定装置に相当の負荷がかかっている証拠です。

 

自分の中のものを外へ表現したくて、さながら強くシェイクした炭酸水のペットボトルを空に向かって開けるような感じでしょう。不快な感情に心は支配されていますから、余計に自分の快の声にチューニングが合わせ辛くもなっています。 

 

自分の孤独の声を冷静に聴ければ、必ずあなたのやってみたいことが見つかります。孤独の声を掻き消して、歩調を大きなものに合わせすぎるのは禁物です。突飛なあなたの孤独の声を、冷静に感情を交え過ぎずに聞くことができるように、当相談室ではFAP療法を活用しています。孤独の声、内省が正確に聴くことができた時、気づきが生まれ、必ずあなたは変化します。 

 

その声を邪魔してあなたから現実感覚や客観性を奪って、主観の殻に閉じ込めて社会性にも支障を来す状況を改善するお手伝いをさせていただきます。 

 

孤独感に陥っている人たち: 孤独感を越えて

「独り」は「孤独感」を超越します。 

とあるチェーン展開する企業に自分では自分を天文学者とは思っていない天文学者が就職します。 

 

天空に没頭している姿が業務の進捗状況を遅らせ、周りからは非難や注意が絶えません。みんなには睨まれてとうとうクビになってしまいます。が、そらに星がある限り彼はとても元気です。 

 

「そうか、どこかの天文台で働けば楽しいぞ!親がそれが一番普通で安全なんだとうるさいから就職してみたけど、会社ではどうしてみんな、あんなに僕に対して不機嫌だったんだろう、安全どころかおっかない人ばかりだ。まあ、どうでもいいけど」 というように下界のことなどお構いなしです。 

 

健康な孤独には、このようなあっけらかんとした雰囲気が漂っています。そして何処か間の抜けた健康なユーモアを感じます。極端な例(天文学者さんごめんなさい!)を挙げましたが、この健康な孤独こそが生きやすさのヒントです。あなたの中のこの部分に栄養を与え、それを大きくして、気づきと成長へのお手伝いをするのが当相談室の心理カウンセリングです。 

 

嫉妬も嫌がらせも、嫌われることも、放置されることも、誹謗中傷も、忘れられることも、寂しさも、見捨てられることも飛び越えた自分は、きっとあなたの中に存在しているかも知れません。その箱を開けた時に、もう一人のあなたが独りぼっちだったあなたに、ようやく声を掛けてくれます。「ご無沙汰!やっと二人になれた」と。 

 

このように、自分の中の自分と出逢って、自分と対話することは、実は一人でいると非常に困難です。この状況を打破して、本来の自分に出逢ってゆく方々を、心理面接の場面では数多く見てきました。自分を見つめる第三の目として当相談室をご活用していただければと思っております。 

 

孤独という、「心が通じ合わない」ことへの苦しみや期待から解放された時、新しいあなたがきっとそこに力強く立っているはずです。 

 

●ご興味のある方はこちらからご予約を頂けます。

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