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コラム:感情を麻痺させる人たち

コラム   2023/06/01 (木)  1:40 PM

感情を麻痺させる人たち:麻痺はこんな感じであなたのそばにいる妖怪です 

 

思わぬところで感情の麻痺は起きています。感情の麻痺は日常化しています。感情が麻痺していますから、自分自身には何かピンときませんし、正しく感じ取ることは困難です。自分の快不快のセンサーも機能しませんから、自分がどうしたいのか、何を求めているかがいつもぼんやりしてしまうかも知れません。

 

快不快のセンサーが機能しないと過剰適応します。危機管理能力は低下します。嫌なことを避けずにやり続けている。羞恥心を覚えるような行為、命の危険を脅かす場所や人間関係、周りが不快に思えることにも不気味なくらい平然としていたりします。それはなんでもできる万能感という名前の妖怪の姿をしているかもしれません。

 

その妖怪に祟られると、いくらやっても不全感がある、成功しない、頑張っても評価されない、自分自身が感じられないなどを無意識の奥底に溜め込んでしまいますから、社会生活や人間関係で感情トラブルや問題行動が起こりやすくなるかも知れません。 

 

それが高じると生きることに対して捨て鉢、なげやり、自暴自棄などの「どうにでもなってしまえばよい」という無力感と放心状態で、妖怪に私全体をも支配されてしまいます。”私”が他人化してゆきます。 

 

「どうしてわたしはいつもこんな風になてしまうんだろうか?」という後悔や憂うつや羞恥心や怒りを感じ取れるようになった時、感情の麻痺は消えてゆきますが、感情が麻痺している状態の自分に「どうすればいいの!?」と尋ねても、自分自身が他人のようなよそよそしい感覚では、いくら聞いてみてもピンときませんから始末におえません。 

 

このように、妖怪「過剰適応」「万能感」「感情麻痺」らは、あなたから心を観察したり、内省したり、生きづらさを改善しようという能力を妨害します。 

感情を麻痺させる人たち:失感情症(アレキシサイミア)について 

 

「感情」とはどんなものでしょうか。心理学で感情(feeling、affection)とは快不快の主観的な体験によって感じる個人的態度のことと定義されています。 

 

自分の感情(快不快)を正しく観察し感じ取り、直観的な判断で行動ができれば、人間は危険な場所、不快なもの、違和感を覚える行為などへは近づかないでしょう。この場合の感情に誘発された動作や行動は情動(emotion)と呼ばれています。

 

最近若い人たちの間で流行っています「エモい」も、情動のことを指します。具体的には「喜怒哀楽」です。恐怖は動悸を早めます。笑いは身体を緩くします。怒りはこぶしを固くしたり、食いしばったりします。悲しみは涙を落とします。このように体と同調しているのが情動の特徴です。 

 

感情や情動が機能しない状態は失感情症(alexithymia)と呼ばれています。 失感情症は、1970年代に精神科医のピーター・E・シフネオスらによって提唱された性格特性を表す概念で以下の特徴を挙げています。 

 

・自分の感情を認知できない 

・感情を言語化することが困難 

・想像力や共感性も乏しい傾向を持つ 

 

上記のような機能が働かないと、自分がどうしたいのかがわからなくなります。自己を客観視するための想像力も乏しければ、 自分との対話(内省)が成立しませんし、自己観察そのものにストレスを感じてしまうでしょう。 

 

自己観察や内省にたどり着けず、回り道ばかりで疲弊しますから、生きる意味を見つけることが依存対象(アルコールゲームギャンブル、ショッピング、恋愛など)などの手っ取り早いものへ嗜癖するかもしれません。 

 

 

感情を麻痺させる人たち:未だ統合できない私の部分としてのトラウマ 

 

感情を麻痺させながら生活せざるを得ない人たちは、トラウマ体験をいまだに未統合のまま抱え込んでいる場合があります。 

 

トラウマはあなたの中にある快や喜び、楽しさなどの肯定的な感情の背後に漂う不穏な影として存在します。元気さや健康、喜び、楽しさなどの肯定的な感情を感じようとすると、感じたくない不快な体験や恐怖感、自分ではどうすることもできなかった苦しい状況、助けを呼んでも助けてもらえなかった環境、正しくても間違っていても結局最後は怒りに巻き込れ、暴力が勝利するくやしさなどが心の中で優位に立とうします。

 

その記憶を削除し、消去し、引きちぎって、燃やしたいと思えば思うほど、人は無関心の技が上手になっていたりしますが(これが麻痺であり解離です)、演じることにくたびれると、あるいは安心してほっとすると、自分のものであってほしくない過去の体験が、現在の自分の安定や幸せを確かめにでもくるかのように突如、邪悪な記憶がフラッシュバックとなって襲ってきます。 

 

こうした心理状態は言語化や意識化が非常に苦しいために、原因不明の体の痛みとなって表れたり、心的外傷後ストレス障害解離性障害、離人症、解離性健忘などの症状を使って、社会や他者(家族、友人、医師、心理カウンセラーなど)に遠回しに危険信号を発信します。 

 

精神疾患の症状は、私の部分としてのトラウマをも統合して私が私全体を感じて現実感覚を取り戻すための入り口です。私の中の私自身への他人感覚から解放された時、世界はぱっと明るさを取り戻し、色彩を感じるでしょう。今ここにいる私の能力を使ってみたいという、そんな未来を志向する人生が躍動しはじめます。 

 

なぜならば、この未来を指向するエネルギーのほとんどは、トラウマ体験を未統合のままブロックするために使われていたことに気がつかれるかもしれません。非生産的で生きづらさを払拭できない解離や感情の麻痺のために使用していた精神力は、自分の願いや希望のために使用しても構わないという自由を感じた時、自己肯定感ややる気、健全な社会性が成長しはじめます。この力を解放するために当院ではFAP療法を用いながら皆様に活用しております。 

感情を麻痺させる人たち:私の心が言うことを聞いてくれない 

 

・感情に振り回される 

・感情が高ぶる 

・感情が抑えられない 

・感情がもつれる 

・感情が落ち着く 

・感情が下がる 

・感情が落ち込む 

・感情が消える 

・感情が麻痺する 

 

このように書き出しますと、感情は私の内側の中で飛んだり跳ねたり落ちたり停止したりと 様々な動きを持っているということがわかります。私たちはこうした様々な精神物理現象を体の内側に飼っていますが、自分のものであるにもかかわらず、「感情」はどうも主人である「私」の言う事を聞いてくれないことが日常生活では多々起きています。 

 

対人関係というものをを全く知らない、宇宙空間に完全に独りきりの孤立した人間に「感情」という機能は果たして生まれるのでしょうか。 おそらく、「対人関係」がゼロの世界では「感情」は生まれないのかもしれません。 

 

私に安らぎをあたえたのか、痛みをあたえたのかなどの外界からやって来る刺激への反応に対して、人間は受身です。常に刺激や情報が飛び交う中で生きて、それらを自分から遮断することは、たとえ目や耳や口や鼻を塞いだところで無理でしょう。外界の様々な刺激は好き嫌いや快不快を無視して私たちに否応なしに飛び込んできます。

 

この外界刺激の暴力に待ったをかけるのが麻痺ではないでしょうか。私たちを外界刺激の暴力から守ってくれる機能を麻痺は持っていて、安全と快と休息と健康へと向かわせる最後の砦になってくれるものといえるでしょうか。 

感情を麻痺させる人たち:もう一人の正直な私 

生きづらさの本質は、自己を表現する行為にためらいや禁止や罰則が与えられることが生活全般を支配していることです。自由に楽しく自分を表現すると、何故か仲間外れにされたり、恨みや嫉妬の攻撃にあうのは、生き物の宿命なのでしょうか。他者の自慢話を延々と聞いていると、その人が大切な人であるにもかかわらず、何故か疲れて元気を奪われてゆく経験は、皆さんにもないでしょうか。

 

親兄弟、友人、会社の上司、同僚、妻、夫など、どのような人間関係でも、自分より評価され、うれしさあまって自慢しを得意げにされてしまうと、それを目の当たりにする方の心の雲行きは怪しくなることをやめられません。が、一緒に喜んでいるふりをしてしまいます。するとその雲行きの怪しい感情は、心の奥底に滞り釈然としませんが、何時しか忘れ去られ、それはもうわたしのものではないと思ってしまうことを、人間はほとんど毎日やっているのではないでしょうか。それは我慢や忍耐、大袈裟には根性などと呼ばれています。 

 

仲のいい友人に怒りを感じたが冷静になろうと深呼吸をしてみた 

苦手な同僚と今日から1週間ずっと勤務だなんて 

夫は食器をいつも洗わない、5分程度で食器は片付く、やれやれ、わたしがやろう 

暴言を吐くお客があと1時間ほどで到着する、ドキドキするがやり遂げろ! 

あの店員は私の順番を後回しにした、文句いいたいけど、、、、 

何か質問は、、、、(ここで手をあげたら何だか恥ずかしいし、でも、、、、) 

 

こうしたことが日常生活では繰り返し起きてはいないでしょうか。すると、晴天の日の午後、裏通りの民家の駐車場で猫寝転んでいるのんき猫の姿は、これらを帳消しにしてくれたりしますね。 動物は正直です。自分に不快や危険が迫ってくると、遠慮なくそれを回避しようとします。

 

社会集団を形成して生きなければならない人間には、この正直さを実践することが非常に苦手で、あまりの正直さは繊細さを欠き、対人関係でのトラブルの元となりがちです。 

 

だらか、プラス思考を大声で叫び、本音は言わず、怒りは抑え込み、作り笑顔のプロとなって善人を演じてほんとうの気持ちを表現しなければ、揉め事もトラブルも起きず、怒りや暴言や仲間外れからも守られると、ほんの少しだけでも思っているのが人間です。 

 

従って「麻痺」とは、他者に遠慮して本来の自己を表現停止にしなければならなかった心理状態をも含んでいることになります。 

 

他者からの恐怖、怒り、嫉妬、イジメ、暴力、恫喝、DV、ハラスメント、虐待、これらを回避する防衛策として、一旦はその相手の前で「死んだふり」や「仮死状態」や「よい子」を演じなければなりません。人間の前で演技をしなければならない人は孤独です。人間への不信感や恐怖は、こうした孤独を強要します。 

 

安心と安全なを求めて、演じることから解放される場所として、当相談室を活用していただければと思っております。 自己を発揮してどうか皆様が活躍していただけますように。

 

●ご興味のある方はこちらからご予約を頂けます。

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